第8話 百二十四歳の渡界人に、口づけの意味を教えられた
「扉を開けずに、私を客として招いて」
玄関の向こうから、葛城凪と名乗った女の声がした。
取っ手へ触れかけていた手を離す。扉は今、セラーデ南門近くの石壁へつながっている。外にはまだ夜明け前の暗がりが残り、人通りもないはずだった。
「開けなければ、どうやって入るんですか?」
「私の《渡界特典》を使う。そちらから招かれないと越えられないから、葛城凪を客として受け入れる、と家へ伝えてほしい。扉を開けば、君の中に残った針が外の空間へ道をつなぐ。アルディスへ今の場所を知らせたくなければ、そのままにして」
僕の腕を掴んでいるヴァレナの指へ力が入った。胸の奥を結ぶ糸からも、警戒と、それだけではない揺れが伝わってくる。
「本当に凪なの?」
ヴァレナが扉へ問いかけると、向こう側で小さく息を吐く音がした。
次に返ってきた声は、この世界の言葉へ切り替わっていた。
「声だけでは信用できないか。では、黒曜宮の客間であなたが最初に覚えた日本語は?」
「……猫、でしょう?」
「私が教えたのは犬だよ。あなたが指差したのはゼルグラードの黒狼だったのに、どうしても猫だと言い張って覚えた。おかげで、あの子はしばらく廊下を歩くたびに『ネコ』と呼ばれていたね」
ヴァレナの手から、ほんの少し力が抜けた。
「凪だわ。あのことは、父上と私しか知らないもの」
「黒狼を世話していた人も知っていたと思いますけど」
「今は細かいことを言わないでちょうだい」
緊張しているはずなのに、胸の糸へ警戒とは違う微かな揺れが混じった。魔王の娘にも、幼い頃に大きな犬を猫と言い張った時期があったらしい。
声の主が本物でも、安全な相手とは限らない。けれど、アルディスの追跡針について今の僕たちより詳しく、魔王が頼れと告げた相手でもある。外へつながる扉を開けずに会えるなら、話を聞く価値はあった。
「《旅人の家》。葛城凪さんを客として招きます。ただし、僕が許可を取り消せば、すぐに退去してもらえる範囲で」
目の前へ金色の文字が浮かんだ。
『外部の渡界特典から来訪申請を受信しました』
『申請元――《門渡り》』
『出入口を介さない一名の来訪を、客人として受け入れますか?』
《許可する》へ触れる。
玄関の扉は動かなかった。代わりに、僕たちの背後、居間と台所の境へ白い線が一本現れた。天井から床まで真っ直ぐに走った線が左右へ開くと、その間だけ木の壁が消え、朝靄に包まれた細い路地が見える。
一人の女が、そこから家の中へ足を踏み入れた。
砂色の長衣に、膝まである革の長靴。肩へ掛けた布鞄は使い込まれ、口から何本もの細い道具が覗いている。黒髪は肩の辺りで切り揃えられ、片側だけを古びた鼈甲色の留め具で押さえていた。
この世界の服を着ているのに、顔を見た瞬間、日本人だと思った。黒に近い瞳も、僕より頭一つ低い背丈も、それだけなら王国に似た人はいる。それでも、軽く顎を引いてこちらを見る仕草と、目が合った時の曖昧な微笑みには、四か月前まで僕がいた場所の気配が残っていた。
見た目は、二十二、三歳ほどだろうか。
女が両足を室内へ入れると、背後の景色が細く畳まれた。白い線まで消え、壁は何事もなかったように元へ戻る。
『客人《葛城凪》を受け入れました』
『来訪経路は閉鎖され、継続する外部接続はありません』
「初めまして、佐原悠真くん。日本語で挨拶できるのは嬉しいけれど、握手は後にしよう」
その一言だけを日本語で告げ、凪は僕の顔を確かめると、ヴァレナへ視線を移してこちらの世界の言葉へ戻った。
「久しぶり。ずいぶん大変なことになったね」
「あなたは……変わっていないわね」
「その話も後。悠真くん、扉とヴァレナから離れて、そこの椅子へ座って。針は肉に刺さっているわけではないけれど、抜き損なえば《旅人の家》まで道標にされる」
再会を喜ぶ間もなく、凪は肩の鞄を卓上へ下ろした。
僕が椅子へ腰を下ろすと、彼女は正面へ立ち、胸元へ手をかざした。触れられてはいない。それでも薄い膜で身体を撫でられたような感覚があり、胸の奥に残っていた銀黒い冷たさがゆっくり動いた。
「見つけた。思ったより深いな」
「抜けますか?」
「そのために来た。ただし、君とヴァレナを結んでいる道へ巻きついている。先に言っておくけれど、痛くても黙って耐えるのはやめて。百年以上この仕事をしていても、痛みを我慢する患者だけは扱いやすくならないから」
「百年以上?」
聞き返した僕を、凪は片手で制した。
「後でね。ヴァレナ、魔力を引かないで。あなたが助けようとして糸を動かせば、針は悠真くんの奥へ食い込む」
ヴァレナは僕のそばへ来かけていた足を止めた。納得して引いたというより、今は凪へ任せるしかないと判断したように、短剣の柄から手を離す。
凪が右手の人差し指で、僕の胸の前へ掌ほどの長方形を描いた。
「《門渡り》」
白い線が空中へ残り、小さな扉の形になる。凪が指先で中央を押すと、薄い膜のようなものが奥へ沈み、その向こうに暗い空間が開いた。
穴の先に僕の身体は見えなかった。代わりに、金色の太い光と、その内側を通る薄紫色の糸が浮かんでいる。糸へ絡みついていた銀黒い針が、こちらから覗かれていることに気づいたように向きを変えた。
耳の奥で、あの冷たい音が鳴る。
「これが、僕の中に?」
「正確には、君と家の間にある境界へ刺さっている。身体を切っても出てこないよ。アルディスは潮鏡からヴァレナを狙ったのに、君が代わりに受け、そのうえ家の入口を作った。針にとっては、これ以上ないほど立派な道が開いたわけだ」
凪は鞄から、先の曲がった細い鉗子と、小指ほどの硝子瓶を取り出した。鉗子だけを小さな扉の向こうへ入れる。
胸の中央へ氷を押し当てられたような痛みが走り、息が詰まった。僕の変化は、触れていないヴァレナにも伝わったらしい。彼女が一歩踏み出し、すぐに自分で止まる。
「家へ頼んで。私を敵と見なさず、君とヴァレナを結ぶ道だけを守るように」
「《旅人の家》。凪さんの処置を受け入れてください。ヴァレナさんとのつながりは傷つけないで」
『客人《葛城凪》による境界操作を確認しました』
『所有者の意思に基づき、対象経路の保護を優先します』
金色の光が細まり、薄紫色の糸を包む。銀黒い針だけが押し出されるように浮き上がり、凪の鉗子がその中央を挟んだ。
針が激しく震えた。
冷たさが胸から喉へ駆け上がり、口の中へ鉄の味が広がる。鼻から温かいものが落ちたが、今度は拭う余裕がなかった。針の先が二つに裂け、一方は玄関へ、もう一方は薄紫色の糸へ食らいつこうとする。
「ヴァレナを見て。彼女がここにいることを確かめて」
凪に言われるまま顔を上げた。
ヴァレナは少し離れた場所に立ち、金色の瞳で僕を見ていた。顔色はまだ悪く、長衣の脇腹には潮鏡で開いた傷の血が滲んでいる。駆け寄りたいのを堪えていることは、胸の糸へ伝わる張りつめ方で分かった。
「ここにいます」
「ええ。私はどこにも行かないわ」
ヴァレナの返事とともに、薄紫色の糸が安定した。
凪が鉗子を一気に引く。
細い針が小さな扉を抜け、こちら側へ現れた。金属ではない。濡れた髪を固めたような銀黒い線が、鉗子の先で生き物のように身を捩っている。
凪はそれを硝子瓶へ落とし、すぐに栓を押し込んだ。瓶の中で針が跳ね、甲高い音を立てる。そのたびに胸の冷たさが薄れ、代わりに深いところを引っ掻かれたような鈍い痛みが残った。
空中の小さな扉を、凪が指で閉じる。白い線が消えると同時に、僕は椅子の背へ身体を預けた。
『外部追跡術式の中核を、保護領域から分離しました』
『接続痕の修復を開始します』
「終わったんですか?」
「針の本体はね。痕が塞がるまで、今日は外へつながる扉を開けないほうがいい。特にアルディスが一度触れた潮鏡と星沈みの湖には、しばらく入口を置かないこと」
凪は瓶へ黒い布を巻き、赤い紐を三重に結んだ。それでも中から、虫が硝子を引っ掻くような音が聞こえている。
「壊さないんですか?」
「今ここで壊せば、針が途切れた場所を術者へ教えることになる。これは私が持ち出して、昼に港を発つ船へ偽の道を載せるよ。うまくいけば、アルディスには君が海へ出たように見える」
「うまくいかなければ?」
「私が港で追われる。だから失敗しないようにする」
若い顔で落ち着いて答えられても、安心してよいのかは分からなかった。ただ、瓶の中で暴れる針を見ても指先一つ震えていない。百年以上という先ほどの言葉が聞き間違いでなければ、その落ち着きにも理由があるのかもしれない。
ヴァレナが僕のところへ来て、鼻元へ布を当てた。今度は上を向けとは言わず、鼻の柔らかいところを指で押さえる。
「痛む?」
「胸の奥が少し。でも、冷たい感じはなくなりました」
「あなたは、私が関わるたびに血を流しているわね」
「最初に湖で流したのは、ほとんどヴァレナさんの血です」
「比べる話ではないでしょう?」
静かな声だったが、胸の糸から伝わる重さは薄くならなかった。僕は布を押さえる彼女の手へ、自分の指を重ねる。
「今度も助かりました。だから、先に傷を見せてください」
ヴァレナは反論しかけたものの、僕が脇腹へ視線を向けると諦めたように息を吐いた。
「二人とも、治療の順番で争う元気があるなら大丈夫そうだね」
凪が卓上の道具を鞄へ戻しながら笑った。
◇
ヴァレナの傷へ新しい包帯を巻き、僕の鼻血が止まる頃には、台所の湯も沸いていた。
夜明け前から潮鏡へ行き、アルディスに襲われ、家ごと逃げた直後に追跡針を抜かれた。眠気より疲労のほうが勝っていたが、凪へ聞きたいことが多すぎて、今すぐ寝室へ戻る気にはなれなかった。
三人分の茶を淹れると、凪は木のカップを両手で包み、立ち上る湯気へ顔を近づけた。
「日本茶ではないけれど、温かいだけでありがたい。こちらへ来たばかりの頃は、沸かした水を飲むだけでも贅沢だったよ」
「凪。先ほど、百年以上と言ったでしょう?」
ヴァレナも聞き流してはいなかったらしい。卓を挟んだ向かいから問いかけると、凪は茶を一口飲んでから頷いた。
「言ったね」
「あなたは黒曜宮にいた頃から、今とほとんど姿が変わっていないわ。私は、渡界人は少し長命なのだと思っていたけれど……まさか百歳を超えているの?」
「満で百二十四。こちらへ来た時が二十一で、それから百三年ほど経った」
ヴァレナの手元で、カップの底が卓へ小さく当たった。
僕も凪の顔を改めて見る。目尻に深い皺があるわけでもなく、手の甲にも年齢を感じさせる染みはない。少し疲れて見えるとしても、港まで走ってきた若い女性の範囲だった。
「百二十四歳……?」
「二人とも同じ顔をするね。ヴァレナには、女へ年を尋ねるのは失礼だと教えたはずだけれど」
「それを盾に百年も隠す人がいるとは思わなかったわ。以前、二十四歳くらいに見えると言った時、否定しなかったでしょう?」
「見た目については正しかったからね。年齢を答えた覚えはないよ」
ヴァレナは何か言い返そうと唇を開き、結局、諦めたように茶を飲んだ。父親の客人として敬意を払ってきた相手が、自分の想像より百年近く年上だったと知れば、すぐには言葉も出ないのだろう。
「《門渡り》の影響ですか?」
「察しがいいね。この力は、招かれた場所へ私を運ぶたび、身体を最初に世界の境を越えた時の形へわずかに引き戻す。怪我が治るわけでも、空腹が消えるわけでもない。ただ、歳だけはひどく遅くなった。百年も門を渡り続けて、ようやく二つか三つ老けたくらいかな」
「最初に世界を越えたのは、いつなんです?」
「日本では大正十一年。西暦なら一九二二年だった」
教科書の中にしかなかった年が、目の前の女性の記憶として口にされた。
「大正……。僕がいたのは令和です」
「レイワ」
凪は初めて聞く土地の名のように、ゆっくり繰り返した。
「大正のあとは?」
「昭和、平成、令和です」
「三つも先か。天皇陛下のお名前を聞いても、もう私には分からなそうだね」
驚いているはずなのに、凪は泣きも笑いもしなかった。ただ、カップの縁を親指で撫で、遠くの音を聞くように少しだけ目を伏せる。
「芥川龍之介は知っている?」
突然出てきた名前に、今度は僕のほうが返事へ遅れた。
「もちろんです。教科書に作品が載っていますし、芥川賞という文学賞もあります」
「賞になったのか、あの人」
「会ったことがあるんですか!?」
「父が勤めていた印刷所へ、校正刷りを受け取りに来たのを一度だけ見たよ。客へ出された羊羹を一切れ食べたあと、二切れ目を取るかどうか、原稿を読む時より長く悩んでいた。私の中では、今でも羊羹の皿へ三度手を伸ばした人なんだけれどね」
国語の教科書で見た細い顔と、羊羹を前に迷う姿がうまく重ならない。
「その人は、偉大な魔術師なの?」
話へ入れずにいたヴァレナが尋ねる。
「小説家です。僕らの世界では有名な」
「人の名が賞になるほどの?」
「そうみたいだね。本人が聞いたら、羊羹より長く悩みそうだけれど」
凪が肩を揺らす。僕まで笑うと、ヴァレナは納得できないものを見るように僕たちを交互に見た。
「夏目漱石も知っています。昔は千円札の肖像になっていました」
「漱石先生がお札に? 胃を押さえて断りそうな話だね」
「僕も実物は祖父が持っていた古い札でしか見たことがありませんけど」
「そうか。教科書の中だけではなく、そんなところにまで百年があるんだね」
凪は微笑んだまま、今度は少し長くカップへ口をつけた。
百年以上前に日本を離れ、この世界で一人だけ記憶を重ねてきた人にとって、令和という言葉がどれほど遠く聞こえたのか、僕には想像しかできない。それでも、ここで分かったようなことを言うのは違う気がして、代わりに残っていた焼き魚と丸パンを卓上へ出した。
「羊羹はありませんけど、食べますか?」
「いただくよ。朝食を食べ損ねてきたからね」
「百二十四歳の食事へしては、粗末ではない?」
「年齢で朝食が豪華になるなら、もっと早く打ち明けていたよ」
凪は焼き魚を半分に分け、潮柑を搾った。箸ではなく二本の細い木棒を器用に使っているのを見て、ヴァレナがまた驚いたように手元を眺める。
少しの間、食器の触れ合う音だけが続いた。
凪が食事を終えると、卓の端へ置いていた黒い包みを中央へ戻した。中の追跡針は静かになっていたものの、完全に動きを止めたわけではない。布の隙間から、銀黒い先端がヴァレナの座る方向へ向いている。
「そういえば、魔王はどうやって凪さんへ連絡したんですか? 潮鏡では、名前を聞き取るのが精一杯だったと思いますけど」
「黒曜宮を出る時、ゼルグラードへ《呼び札》を一枚預けたんだ。一度しか使えない代わりに、私がどこへいても短い言葉を届けられる。今朝届いたのは、『ヴァレナ、セラーデ、渡界人、追跡針』の四つだけだったよ」
「それだけで、私たちの場所まで分かったの?」
「セラーデで見慣れない境界を探したら、南門に立派な扉が増えていたからね。しかも、アルディスの針を刺したまま。見落とすほうが難しいよ」
凪が軽く言うと、ヴァレナはカップへ視線を落とした。追跡針を僕へ移してしまったことを、また自分の責任として数えているように見える。僕は彼女が口を開く前に、黒い包みへ目を戻した。
「楽しい話だけをしに来られればよかったのだけれど、これについては今のうちに伝えておくよ」
凪が包みの上へ指を載せる。
「この針は、単に魔族の気配を追う術ではない。境界を越えた者が、どの道を通ったか記録するための術が元になっている」
「渡界人を調べる術、ということですか?」
「元は私が作ったものだよ。世界を渡った時の道をもう一度見つければ、日本へ戻れるのではないかと思ってね。黒曜宮にいた頃、研究の一部を客人用の書庫へ預けていた。その中から、境界へ目印を刺す方法を書いた紙だけが一度なくなり、何事もなかったように戻された。それで私は城を出た」
ヴァレナが眉を寄せる。
「父上には、盗まれたと伝えなかったの?」
「写されたと気づいた時には、元の紙は戻されていた。誰が読んだか証明できず、疑う相手も多すぎた。だからゼルグラードへ偽の続きを預け、私は外から使った者を探すことにしたのだけれど……ずいぶん時間をかけて、嫌な育ち方をしたものだね」
瓶の内側で、針がかすかに硝子を叩く。
「アルディスが、凪の研究を使っているの?」
「この組み方を知る者は、私以外なら盗み見た人間だけだ。彼が最初に読んだのか、誰かから受け取ったのかまでは分からない。ただ、潮鏡で悠真くんが渡界人だと知った後、この針はヴァレナではなく彼の境界へ根を張った。アルディスはもう、魔王の娘を連れ戻すだけでなく、《旅人の家》そのものを調べるつもりだよ」
王都から僕と香澄を同時に再鑑定する命令が出ていることまで、アルディスは知っていた。
「香澄も狙われますか?」
「可能性はある。もう一人は勇者一行と共に王都へ向かっている、と彼自身が言ったのでしょう? 今すぐ手を伸ばせるかは別として、忘れてはくれないだろうね」
僕は昨日出したばかりの手紙を思い出した。魔王軍内部の異変については書いたが、アルディスが香澄の存在まで知っているとは伝えていない。
「もう一度、セインたちへ手紙を出します」
「今日、普通の飛脚所へ近づくのは勧めない。針を港から出したあと、私の伝手で北へ便りを送ろう。セラーデには、人間の王国と魔王領のどちらにも帳簿を見せない船乗りがいる。信用できるとは言わないけれど、銀貨には正直だよ」
「それを信用できると言うのではなくて?」
ヴァレナが尋ねると、凪は首を横へ振った。
「銀貨より高い値を付けられれば、簡単に裏返る。だから、裏返っても困らない形で頼むのさ」
穏やかな口調のまま、凪は黒い包みを鞄へ収めた。若い姿へ気を取られていたが、百年以上生きてきたという言葉は、こういう判断のほうに表れているのかもしれない。
「それと、針を抜く時に気になったことがある。二人を結んでいる魔力の道について、詳しく聞かせてほしい」
凪の視線が、僕とヴァレナの間を移動する。
「追跡術を受けた時に、家がヴァレナさんの気配を僕の保護領域へ入れました。そのあと、消えずに残ってしまったみたいです」
「そこまでは針を見れば分かる。どうやって、彼女の魔力を君の中へ通したの?」
僕はヴァレナを見た。
説明すると約束したのは彼女だが、隠す理由はない。胸の糸が急に細く張ったのが気になりながら、あの夜に行ったことをそのまま答える。
「口づけです」
凪の手が、鞄の留め金へ触れたまま止まった。
「口づけ、というのは」
「キスです。追手に気配を見つけられないよう、呼吸と一緒に魔力を移す必要があったので」
「ヴァレナから?」
「はい」
凪はすぐには何も言わなかった。先ほど百二十四歳だと明かした時より、本人のほうがよほど驚いた顔をしている。
「一度だけ?」
「二度です。二度目は、僕の身体に残った魔力を調べるためでした」
「ユウマ。そこまで続けて話さなくても――」
「回数で意味が変わるんですか?」
僕が尋ねると、ヴァレナは口を閉じた。胸の糸から伝わってきたのは痛みではなく、急に熱を持った戸惑いだった。
凪がゆっくりとヴァレナへ向き直る。
「それがどういう意味か、あなたも分かっているでしょう?」
「分かっているわ。けれど、どちらも必要があってしたことよ」
「一度目について責めるつもりはないよ。あの状況なら、二人とも生きるために最も早い方法を選ぶべきだった。問題は、道ができたと知った後の二度目だ」
二人の間では、僕だけが話の意味を理解できていなかった。
「あの、魔族にとって、キスには何かあるんですか?」
凪は僕へ顔を戻したものの、答える前に一度ヴァレナを見た。本人から話す機会を残しているらしい。
ヴァレナは膝の上で指を組み、しばらく黙っていた。やがて僕から目を逸らさないまま、静かに口を開く。
「魔族は、人間よりも自分の魔力を身体の一部として感じているわ。特に呼吸へ混じる魔力は、その者の核に近いものなの。家族でもない異性へ、口から直接それを渡すことは、普通ならしない」
「普通なら、というのは?」
「伴侶として自分の内側へ迎えてもよいと思う相手にだけする。古い習わしよ。口づけだけで婚姻が成立するわけではないし、相手にも同じ意思がなければ契りにはならないもの」
言葉は理解できた。自分に関係する話として受け止めるまでには、もう少し時間が必要だった。
「地球の言葉で一番近いのは、求婚だね」
凪が逃げ道を塞ぐように付け加えた。
「もちろん、悠真くんは意味を知らなかった。だから承諾したことにはならないし、二人が婚約したとも言わない。ただ、ヴァレナが彼へ差し出したものの意味まで、なかったことにはできないよ。まして二度目は、彼の魔力を自分へ返させている」
温泉での二度目の口づけを思い出す。ヴァレナの魔力が僕の胸を巡り、僕のものまで同じ道を戻った。その結果、互いの痛みや強い感情が、今も薄く伝わっている。
「ヴァレナさん。二度目に調べた時、ほかの方法はなかったんですか?」
「なかったとは言わないわ。手や額から少しずつ魔力を流し、何度かに分けて確かめる方法もあった。ただ、あなたの中にできた道を傷つけず、短い時間で全体を調べるなら、同じ場所から辿るのが確実だったの」
「その方法だと、求婚に近い意味になることも知っていた?」
「ええ」
誤魔化さずに答えた声へ、胸の糸から重いものが流れ込んだ。
「どうして、先に説明しなかったんですか?」
「説明すれば、あなたは自分の身体のことより、私の習わしを気にしたでしょう? 必要な検査まで断らせたくなかった。それに……私は、あなたへ何を求めたいのか、自分でも決められていなかったわ」
ヴァレナは組んでいた指をほどき、卓上へ片手を置いた。僕へ伸ばしかけ、途中で止めたようにも見える距離だった。
「意味の一部を伏せたまま選ばせたことは、私が悪かったわ。ごめんなさい」
追手から逃れるためだった一度目は、僕の返事を待つ時間すらなかった。二度目は違う。何をするのかは説明され、僕自身が調べてほしいと頼んだ。ただし、彼女の世界でそれが持つ意味だけは知らなかった。
腹を立てるべきなのかもしれない。けれど胸の奥へ伝わるヴァレナの揺れは、言い訳を探している人のものには感じられなかった。僕に嫌われることを恐れているような冷たさが混じり、その感覚のほうが、求婚という言葉より先に胸へ残る。
「僕は、意味を知らないまま求婚へ答えたことにはできません」
「ええ。それでいいわ」
ヴァレナは頷いた。言葉より先に、胸の糸が細く冷える。
「でも、意味を知ったからといって、今すぐこのつながりを切ってほしいとも思いません。危険がないかは調べないといけないけど、なかったことにするのは違うと思います」
薄紫色の糸へ、ゆっくり熱が戻ってきた。
「今度からは、何をするかだけじゃなくて、ヴァレナさんにとってどういう意味なのかも話してください。そのうえで、僕も自分で決めます」
「今度、というのは、また口づけをする時も?」
「違います。口づけに限らず、全部です」
慌てて言い直すと、ヴァレナの口元がわずかに緩んだ。凪は声を立てなかったものの、茶を飲むふりをして視線を逸らしている。
「百二十四歳なら、こういう時は助けてくれてもいいんじゃないですか?」
「長く生きれば、若い二人の話へ口を挟まない知恵くらいはつくよ。それに、私はこれから港で百年前の研究成果と追いかけっこをしなければならない」
凪は立ち上がり、黒い包みを入れた鞄を肩へ掛けた。
「正午までには戻る。私が出る時も外の扉は開けなくていい。《門渡り》で来た場所へ戻るから、家にはそのまま客人の許可だけ残しておいて。二人は休みながら、この先も同じ道を歩くのか話しておくといい」
「凪」
ヴァレナが呼び止める。
「助かったわ。父上の伝言へ応じてくれたことも、ユウマの針を抜いてくれたことも、礼を言う」
「礼は全部終わってから受け取るよ。アルディスに私の研究を好き勝手使われたままでは、こちらも百年分の寝覚めが悪い」
凪は僕たちへ背を向け、空中へ白い長方形を描いた。扉の向こうには、先ほどと同じ朝靄の路地が見える。
「そうだ、悠真くん」
片足を境界の向こうへ入れたところで、凪が振り返る。
「魔族の習わしをもう一つ。必要だけで二度も同じ相手を選ぶほど、彼女たちは自分の魔力へ無頓着ではないよ」
「余計なことを言わないで、早く行ってちょうだい」
ヴァレナの声はいつもより少しだけ早かった。
凪は楽しそうに目を細め、そのまま白い扉の向こうへ消えた。境界が閉じ、家の中に僕とヴァレナだけが残る。
凪に言われたことを、聞かなかったふりはできなかった。
「ヴァレナさん。二度目も、本当に検査だけだったんですか?」
胸の糸が、湯へ浸したように温かくなる。
ヴァレナはすぐには答えず、凪が消えた壁を見つめていた。やがて諦めたようにこちらへ向き直り、金色の瞳で僕を見る。
「必要だったのは本当よ。でも――あなたが相手でなければ、私は別の方法を探していたわ」
その言葉と一緒に伝わってきた熱は、温泉で唇を重ねた時よりも、ずっと隠しようがなかった。




