9話 爽やかな朝、眩しい笑顔
ルチアーノと不思議な夜を過ごした翌朝。授業準備のために早くから音楽館に向かったところ、なぜだかピアノの音が漏れ聴こえてきた。
演奏ではない。ポーンポーンと、同じ音を不規則に何度も鳴らす、この音は……。
(いやいや、まさか……)
思い浮かんだ可能性を否定しつつ、ホールの扉を開けた。
黒いスーツに身を包んだ紳士が、道具片手にピアノを鳴らしている。
「あの、どちらさまでしょう……?」
紳士は私に気がつくと、振り返って恭しく頭を下げた。
「おはようございます。王宮より参りました、調律師のスタインでございます。ルチアーノ殿下より『至急、学園のピアノを最高の状態に調律せよ』との厳命を受けまして、現在このピアノの調律をしております」
や、やっぱり、昨晩ルチアーノの言っていた王宮調律師さんだ……!
浮かんでいた予想が正しかったことに驚愕した。
だって嘘でしょ、あの会話からまだ十二時間も経ってないのよ。
「もう来てくださったんですね……! すみません、急なお願いをしてしまって」
私はそんなに急かすつもりはなかったんですけどね?
しかし王族の無茶ぶりなんて慣れたものなのか、スタインさんは「いえいえ」と柔和な笑顔で対応してくれた。
申し訳なく思いつつ、ひとまず準備室で二人分の紅茶を淹れる。
「お茶、ここに置いておきますね」
「お気遣いありがとうございます」
教卓をテーブル代わりにしてカップを並べ、私は調律の音をBGMにしながら準備に取り掛かった。
それからスタインさんがカップに手をつけたのは、その紅茶が冷えきった頃だった。
スタインさんはもともと違和感のあったAの音だけでなく、全ての音を念入りに調律してくれたのだ。
「待ってください、今いれ直しますので」
「いえ、いいんです。私は冷めた紅茶の方が好きなので」
そう言ってカップを傾け、「うん、おいしい」と微笑む。
(じ、ジェントル……!)
うっかりときめいた。
「……ルチアーノ様はこのピアノを弾かれるのですか?」
スタインさんはどこか物憂げに目を細めながら、自分が調律したばかりのピアノを見つめていた。
「いえ……弾くのは私と一部の生徒ぐらいです。殿下は……〝聴くのが好きだった〟とだけ」
「そうですか……」
「……ルチアーノ殿下も、ピアノをお弾きになるんですか?」
「ええ。ルチアーノ様はどこか兄上様に遠慮するように、いつも人目を避けて演奏していらっしゃいましたが……私はルチアーノ様のピアノも好きでした。兄上様の音色とはまた違う、無邪気で自由な音がしましてね……」
スタインさんはカップを置いて、優しい眼差しで私を振り返った。
「兄上様が亡くなられてからこの一年、ルチアーノ様は音楽を遠ざけてこられましたが……昨晩急に学園のピアノの調律を、などとおっしゃられたので驚きました。……リリコック様、また調律が必要なときはいつでもお申し付けください」
「……はい、ありがとうございました」
道具の入った大きな鞄を手に立ち去るスタインさんの背中を見送りながら、私は昨晩のルチアーノを思い返していた。
ルチアーノはもしかしたら、これまで私が夜な夜な弾いていたピアノを聴いていたのかもしれない。
彼はどんな気持ちで演奏を聴き、調律をしてやろうと思ったのだろう。
……予鈴が鳴るまではまだ少しある。
スタインさんがいなくなって一人きりになったホールで、そっとピアノに触れた。
(——!)
適当に弾いた和音が、脳が痺れるほどに美しい。
その気持ちよさに夢中になって、あれもこれもと音を重ねる。和音はそのうち、流れるように曲へと連なった。
——ムソルグスキーの『展覧会の絵』プロムナード。
前世でも感じたことのない、完璧な音に酔いしれた。これが王宮専属調律師の腕なのかと大興奮で鍵盤を叩く。
そうして弾き終えると同時に聴こえたのは、一人分の拍手。
ハッとして振り返ると、
「いい音になったな」
昨日と同じくいつの間にか椅子に座っていたルチアーノが、朝日に輝く微笑みを惜しげも無く私に向けていた。
「まぶし……! じゃなくて、殿下……! さっそく調律師さんを呼んでくださり、ありがとうございました!」
「ああ。王宮専属調律師にわざわざ仕事をさせたんだ、毎日欠かさずしっかり弾くように」
「はい! もちろんです!」
これだけ音が変わるなら、そりゃあ調律したいに決まってる。これまで半端な音の演奏を聴かされて、さぞもどかしい思いをしてきたことだろう。
ごめんねルチアーノ、これからはちゃんとこの音でナタリーを支えるからね!
満足そうなルチアーノに私も笑みを返す。
とってもとっても、いい朝ね!
◇
「アンナ先生聞いたよ、ルチアーノ殿下がわざわざ王宮調律師を呼んでくださったとか」
昼食時、デスクでいつものランチボックスを広げるヨナスの言葉に私は目を瞬いた。
一体誰から聞いたんだろう。噂ってのは回るのが早いもんだなぁ。
「そうなんですよ~殿下ってばお優しいですよね」
「ええ。しかもなぜか、アンナ先生には殊更優しいようで」
「え?」
どこか含みを感じる口ぶりに戸惑う。
生徒会室での私のあしらわれっぷりを知らない周りからすると、そういう感じになるのか。
ルチアーノはただ音楽が好きなんだと思うけど。
「あ。そういえば今晩はいよいよ私の歓迎会ですね。とっても楽しみです」
ルチアーノの誤解は解いてあげたいものの、私が勝手に語れることも多くない。
ここはとにかく話をそらそうと、本当は特に楽しみでもなんでもない歓迎会を話題に上げた。
「ああ、そうだね。街で評判の良い、すごく素敵なお店を貸し切っておいたから。期待してて」
「えっ、ヨナス先生が幹事をしてくださってるんですか? すみません、わざわざ私なんぞのために……」
「頑張ってるアンナ先生のためならなんてことないよ。俺もすごく楽しみにしてるんだ」
ヨナス以外に特に仲のいい先生もいない私にとっては、ただ疲労するだけなのが目に見えているイベントだ。これまで何度か揉めたドミトリー副理事長もなぜか参加するらしいし。来なくていいのに。
けれど国宝級の顔面で百二十点の笑顔を向けてくれる、ヨナスの期待には応えざるを得まい。
ここはお酒の力を借りて楽しもう。




