8話 夜を想う曲
中庭でのミニコンサートは無事大成功。
ルチアーノにナタリーの歌を聴かせるという当初の目標はもちろん達成したし、放課後には新たな入部希望者が五人もやって来るという副産物も得た。
これでもう心置き無くモブ音楽教師としての仕事に専念できるというもの。
昨夜はコンサートの準備で授業準備どころではなくなってしまったし、今日こそ授業準備を進めないと。
……と、こうして音楽館で月明かりを眺めるのももう何度目か。
夜九時を回ったところで一応明日の教材準備は終わったけれど、毎回毎回その日暮らしすぎて辛い。当面の教材研究と準備が終わるのはいつになることやら。
(まぁでも今日は、もうこれでいいとしよう)
連日よくがんばった。今日という素晴らしい日の締めくくりに、何か一曲だけ弾いて帰ろう。
となれば今のこの気持ちにふさわしい曲は何かなと、ピアノの鍵盤の上で少しの間だけ手をさ迷わせる。
そしてチェンバロよりずっと重い鍵盤に指を乗せた。
やり切ったぞという満足感と充足感を噛み締めつつ、ルチアーノとナタリー、これからの二人に思いを馳せて。弾き始めたのは、ショパンの『華麗なる大円舞曲』。
卒業パーティーで二人で踊る姿を、私も見られるのかしら。
そのときには私がこの曲を弾きたいわ。
なんて、ゲームのプレイ当時に見たダンスシーンのスチルを思い返しながら、まだ一年は先の未来のことを考える。
そうして約六分の曲を弾き終えて、膝に手を置いた。
そのとき、
「相変わらずあんたが弾くのは、聴いたことのない曲ばかりだ」
私以外に誰もいないはずのホールにそんな声が響いて、私は驚愕のあまり椅子の上で飛び跳ねた。
「る……ルチアーノ殿下……!?」
生徒用に並べた椅子の一つに、いつの間にか偉そうにふんぞり返るルチアーノが座っている。
「あんたが作曲してるのか?」
「ち、違いますよ……」
「……そうか」
演奏に集中しすぎた。ホールの扉が開く音にすら気がつかなかったとは。
ん? というか、『相変わらず』聴いたことのない曲『ばかり』とは? ルチアーノが聴いたことのある私の演奏は、今日のコンサートのチェンバロと今のショパンぐらいのはずだけど……
「あの、殿下……」
そもそもここへは一体、何用で? 付き人のヴァンクールにすら連れずに。
尋ねたいことがたくさんあった。けれどなぜだか悲しそうに目を伏せている彼を見ると、そういう質問はなんだか口にできなくなった。
「てっきりあんたが作ったものかと思った。……僕は兄さんの背中に隠れて、勉強も何もかもサボってばかりだったから……音楽すら知らないものだらけなんだな」
……別に知っている音楽の数まで兄と比較する必要はないだろうに。
今からでもやっぱり私の作曲ですと言った方がいいのかな。この世界の住人であるルチアーノが、シューベルトやショパンを知らないのは当たり前のことだし。
でも今の彼の問題の根本は、それで解決するわけでもないんだよなぁ。
(うーん)
彼に何を言うべきか、悩みながら指を動かした。
この世界の作曲家の作品だ。明日の授業の教材として取り扱うつもりだった。
視界の端で、ふっとルチアーノが顔を上げた。
「ご存知ですか?」
「……ああ。カザフ期の作曲家、ヤーレンだな」
お、思った以上に詳しい。なるほど、そもそも音楽については、それなりにわかっている自負があったのか。
「その通りです。……ヤーレンは若くして亡くなった作曲家ですが、名作がたくさんあります。ただ……ヤーレンの作品のどれもこれもが世間で評価されるようになったのは、彼の死後です」
「………………」
「これは芸術の世界ではよくあることです。死はある意味で芸術の神秘性に対するスパイスになりかねない……だけど」
Codaを無視して曲を終わりへと導く。
「死者に次の作品は生み出せない。そのさらに先へ進むことができるのは、生きている者だけです」
たった一ページの小品はこんな短時間でわかりやすい終止形を迎えた。
曲集としてはここから十三番まで続いていくけれど、一番のあの冒頭から作曲家まで当てたルチアーノの素養はちゃんと本物だ。
このままナタリーと歩んでいけば、必ず彼は立派な王になる。
そう思うと、自分のようなモブが一体何をしているんだろうかと、急にバツが悪くなった。
「……偉そうにすみません。教師ってのは職業柄、説教臭いものなんだと許してもらえませんかね」
へらへらしながらルチアーノを見たら、思いのほか神妙な顔をした彼と目が合って血の気が引いた。
へらへらしてる場合じゃねぇ。この子は私の教師としてのクビどころか、その気になればリアルな首すら跳ね飛ばせる王太子殿下だぞ。
「殿下……!? ほら、もう夜も遅いですしそろそろ……?」
帰ってくれ! の気持ちを言葉尻に滲ませまくったけれど、殿下のお尻は椅子からぴくりとも動かない。
「そういえばずっと気になっていたんだが」
「はあ……」
だから、ずっとっていつからなのよ。
「下の方のAの音、少しだけ狂ってないか?」
「! そ……そうなんですよ! すごい、よくわかりましたね!?」
ルチアーノは少しだけ得意げな顔をした。
「あんたもわかっているならなぜ直さない?」
「そりゃ直したいんですけど、さすがにピアノの調律は自分じゃできないし、ここに呼べるような調律師のツテもなくて……」
前任の引き継ぎもなかったからこれまでどこに頼んでいたのかもわからないし、他の教員にもそんなことがわかる人はいなかった。
まぁそこまで大きな狂いでもないし、急務ではないと後回しにしていたのだけれど……
「なら王宮専属の調律師を呼ぼう。早く直してもらえ」
「え!?」
いきなり太すぎるツテを手に入れてしまった。
「い、いいんですか? ていうか調律師に王宮専属とかあるんですね……」
「……兄さんがピアノを弾くのが好きだったからな」
「へぇ、そうなんですね」
そう相槌を打ったあとで「おや?」と。
音楽の知識も音の狂いに気づく音感も、一朝一夕で身につくものではない。ピアノが好きなのは、本当にお兄さんだけだったんだろうか。
「殿下は?」
「え?」
「殿下もお好きなんじゃないんですか?」
思わずそう尋ねれば、ルチアーノは静かに窓の外を見上げた。
「僕は……兄さんのピアノを聴くのが好きだった」
哀愁の滲む声に、少し心が痛んだ。
ゲームにそんな細かい設定はなかったと思う。兄の死による深い悲しみと、王太子としてのプレッシャーに囚われたルチアーノをヒロインの歌が救う……という表面的な設定だけでストーリーが進んでいた。
そうだ、目の前にいるのはゲームのキャラクターなんかじゃない。
今まさに生きている一人の人間なんだと……今更ながらに実感した。
「……お兄さんはいつもどんな曲をお弾きに?」
私は一度ピアノから離れて、本棚の前に立った。
「なんでも弾いていたが……よく弾いていたのはノルードの作品だな」
「ああ、ノルード。いいですよね」
本棚に何冊か並んでいたノルードの楽譜のうち、適当な一冊を手に取った。それをピアノの譜面台の上に置いて、ペラペラとページをめくる。
「お兄さんはどんな方でしたか?」
「どんなって……幼い頃から優秀で、真面目で、優しくて……完璧な人だった」
「努力せずともなんでもできた?」
「そう言う者もいる。だけど違う。兄さんは何に対しても努力を欠かさなかった。弟の僕を含めて他人にはとことん甘いのに、自分に対しては信じられないほど厳しかった」
「……素晴らしいですね。お兄さんも……同じように自分に厳しいのに、それに気がついていない殿下も」
「——!」
曲集の中から、夜想曲を選んだ。
全体をざっと頭に入れてから、楽譜をよく見つつゆっくりと鍵盤を押し始める。
真面目で努力家なお兄さんはきっと、楽譜をちゃんと見るタイプだっただろう。
クラシックを演奏する上でそんなのは当たり前といえば当たり前のことだけど、実は案外難しいものだ。
強弱や速度の指示はもちろんのこと、スラーの切れ目や指番号まで。何一つ見落とさないようにと楽譜を見つめる私には、今ルチアーノがどんな表情でこれを聴いているのかわからない。
ただ、途中で口を挟むことも立ち上がるようなこともなく、黙って演奏を聴いてくれているのをいいことに、私も勝手に弾き続けた。
——甘く繊細な旋律が、静かな夜に溶けていく。
それを聴く彼のアイスブルーの瞳から……一滴、二滴と、悲しみとも喜びともつかない涙が零れるのに、私は気づかないまま。
不思議な会合の夜は異世界の音楽に乗って、叙情的に更けていった。
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