6話 愛が滲む音 sideルチアーノ
半年前に突然姿を消した音楽教師の後任が、今年度からようやくやって来るという話は聞いていた。
まぁ僕はもう音楽の授業なんて取っていないし、そんなのはどうでもいいことだ。喜んでいるのなんて、半年間放置されていた一部の音楽科の学生ぐらいだろう。
しかしどうせロクな教師など来ない。理事長は音楽好きだが、近年不在がちな理事長に代わって学園の実権を握っているのはあの、無駄と非効率嫌いで有名なバリートン副理事長だ。彼がわざわざ時間をかけて、音楽などというもののために教師を選んできたはずがない。
元は貴族の文化であった音楽が大衆の娯楽として広まってからというもの、『わざわざ貴族がやるものではない』とそれを毛嫌いする貴族も増えた。
副理事長もおそらくそういうクチだ。
ならば音楽教師なんて、だれでもよかったはずだ。自分の思い通りに動く駒ならなんでも。
入学式の日、生徒会室にやってきた女教師を見て、そういう予想は確信に変わった。
まず若い女性という時点で、格式高いこの王立学園の教師としては不釣り合いだ。
どう見てもこれまで何の経験も何の苦労もしていなさそうな、どこぞの貴族のご令嬢。
そういう人間ぐらいの方が操りやすくていいという、副理事長の計算が透けて見えそうだった。
はたしてこの女に何か音楽ができるのかと、それさえあやしいとすら思った。
——けれどバリートン副理事長の計算は、さっそく狂いまくっている様子ではあった。
「随分音楽がお嫌いなようですが……音楽は優れた『教養』ですよ?」
生徒会室の扉の外から聴こえてきたのは、つい先程僕に挨拶に来たばかりの女教師とバリートン副理事長の会話。
案の定、音楽教師はでしゃばるな、と釘を刺した副理事長。それになんと本人が噛み付いたのだ。
「……ほう。私に意見する気か、新入り」
「ええ! 貴方のそのお考え、近いうちにあらためていただきますので!」
僕はひっそりと唇を噛んで笑いを堪えた。
あの副理事長に啖呵をきった人間なんて見たことがない。彼が由緒正しい上級貴族だからというのももちろんだが、人に有無を言わせないような迫力が彼にはある。対峙した人間は大抵その圧に負けて、ただ縦に首を振るだけの人形と化すのだ。
だからあんな若い新任教師にああも強く出られたら、バリートン副理事長自身も驚いたことだろう。
その顔を見てみたかった。
「楽しそうですね、殿下」
誤魔化していたのに、笑っていたのがヴァンにはしっかりバレていた。
その夜、ピアノの音を聴いた。
生徒会室から自室へ戻る途中の廊下で。窓の外から微かに聴こえてくるそれは、まるで聴いたことのない曲だったけれど、驚くほど自然に心に溶け込んだ。
思わず窓を開けると音がより鮮明になった。
美しい音色、そして美しい曲だ。
学園内で音楽を聴くのなんて久しぶりのことだった。まるで今日という門出の日を、天が祝福しているかのような音楽。
ただそんな僕に対して、ヴァンは冷静に言った。
「音楽館からですね。あの新任の方でしょうか」
「あの女教師が……?」
いや、新入生のだれかということも考えられるだろう。
「確かめに行きますか?」
「……いや、いい」
下手なピアノならやめさせるべきだ。騒音トラブルになりかねない。
けれど、この音を嫌がる者はいないだろうと思った。
むしろいつまでだって聴いていたいと、僕はその音が止むまでそこに突っ立っていた。
その次の日も、同じような時間に同じピアノの音が聴こえた。
昨日と異なるが、やはり知らない曲。
穏やかで夢見心地なその曲は、静かな闇夜に美しくも儚く揺蕩い、またもや僕の足を止めさせた。
この音の主が教師なのか生徒なのか、はたまた人ならざる何かなのか。
確かめたいような、このまま何もわからないままでいたいような。
考えているうちに音楽館からは灯りが消えていた。
(明日もまた弾くんだろうか)
気が付けばそんなことを考えていた。
——そんな夢のような夜が明け、今。
「殿下、音楽部の部活見学にいらっしゃいませんか?」
疑惑の女教師は着任早々に部活なんぞ設立したかと思えば、今度は設立たった二日目の部活に見学に来いときた。わざわざなぜ僕がそんな真似を?
この教師が一体何を考えているのかさっぱりわからない。
僕は彼女に聴こえないように、こっそりヴァンに尋ねた。
「……この教師に、僕がもともと音楽科だったことを話したか?」
「いいえ」
では意味のわからない提案もたまたまか。
兄の死後、僕が音楽を避けるようになっただなんてことは、彼女には知る由もないはずだ。
新入生の歌がどうしたかは知らないが、興味がないとさっさと追い返そうとした。
……けれど、
「ピアノは」
「へ?」
「ピアノは誰が弾いている」
そこにあの月夜のピアニストがいるならば……それは聴いてやってもいいかもしれない、なんて。
「えっと、歌の伴奏なら私が……」
「……違う、そうじゃなくて」
「? 昨日ピアノを弾いていた子なら、二年生のカタリア嬢です」
「……そうか、わかった。もう戻っていい」
「ええ?」
それから素早く彼女を追い出して、二年のカタリア嬢とやらについてヴァンに調べさせた。
「音楽科の生徒です。昨年の音楽祭でもピアノを弾いていたようですね。曲は……ノルードの『白昼夢』第三番」
「ノルードの『白昼夢』……ああ、あれか……」
かろうじて記憶から引っ張り出せたが、大した演奏ではなかった。
「昨夜の演奏はそのカタリア嬢とやらではないだろうな……」
「ええ、私もそう思います」
手にしていた本を机に置いて、椅子に背を預ける。
音楽のない学園は居心地が良かった。
良いことも嫌なことも忘れ、好きでも嫌いでもないことをして、代わり映えのない日々を過ごす。そんな日常には山も谷もなく、心が喜びに振れることも悲しみに振れることもない。
それが一番、楽な生き方だと思えた。
なのにあの音楽教師が来てからというもの、そんな僕の静かな学園生活が狂ってきている。
(いっそクビでもいいかもな)
バリートン副理事長もおそらく賛成するだろう。簡単なことだ。
「……ん? 何か聴こえるな」
「中庭からです」
不規則に、しかし途絶えることなく、不均一な音が窓の外から入ってきていた。
音楽ではない。これは……
「調律か?」
窓を開けて見てみれば、東屋の下であの音楽教師がチェンバロを鳴らしていた。
どこから引っ張り出してきたんだか、そしてなぜ今そこで調律を始めるのか。本当に謎すぎる。
「面白い方ですね」
ヴァンの言葉には同意せず、しばらく彼女の様子を眺めた。
貴族の令嬢にとって音楽は、いわゆる〝花嫁修業〟にあてはまらない。貴族の中での音楽は、主に男にのみ許された文化だ。
それなのに彼女のような片田舎の男爵令嬢になぜ、チェンバロの調律なんかができるのか……不思議で仕方ない。
彼女がチェンバロに触れる度、音が少しずつ整っていく。
しかし昼休憩に入れば、チェンバロの繊細な音色は生徒達の賑やかな音に掻き消され気味になった。
「殿下、そろそろお食事になさいませんか?」
「……ああ、そうしよう」
気になることは多いが、僕には関係のないことだ。
ただの調律の音を長々と聴いていたのもどうかしていたなと、窓を閉めようとした。
——そこで、ただの調律の音は〝音楽〟に豹変した。
淀みなく流れる素早いパッセージ。強制的に耳を傾けさせられるような、惜しみない技巧の披露。
景色が変わるように移ろいゆくメロディーはこれまで聴いたことのないようなものでありながらも、心地よく耳に馴染んだ。
二日間の月夜のピアニストが誰であったか。
既にほぼほぼ出ていたような答えが、いま確信に変わった。
「アンナ・リリコック……か」
「アンナ先生、ですよ。殿下」
軽快で明るい音色だ。彼女が楽しんで演奏をしているのがよくわかる。
「……彼女は音楽を愛したせいで、嫁の貰い手がつきそびれたのかもな」
「そうかもしれませんが、ご本人に言ってはいけませんよ」
軽口のつもりだったのに、なぜか笑えなかった。
悔しいけれど……美しいと認めざるを得ない。
音楽への、愛が滲む音を。
(兄さんのピアノみたいだ)
彼女の弾く曲は知らないものばかり。兄さんの思い出と重なることはない。
……それなのに。ともすれば涙がこぼれそうになる、この現象は一体なんだ。
この一年、波風立たせない日々を生きてきたせいで、今のこの気持ちが喜びなのか悲しみなのかもわからない。
ただ、これまで貫いてきた無風の日々は、今日でもう終わったのだと——いや、入学式の日から既に終わっていたのだと……やっと気がついた。




