39話 婚約者お披露目パーティーらしく sideルチアーノ
意思とは無関係に口が動き、体が動く。エヴァの声が頭の中に響くたび、胸の奥で何かが摩耗していく感覚だけがあった。
僕という人間が、僕の手を離れていく。
『僕が必ずなんとかする』
彼女にそう約束したのに、まだ何もできていない。
そればかりがただただ気がかりで、何度も深淵へ引きずり込まれそうになる意識を繋ぎ止めていた。
視界はない。音もない。ただエヴァの声だけが届く世界。
——そこに突如、音楽が届き始めた。
優しく柔らかで、人の心を溶かすような音。
それを聴いていると、頭の中の霧が徐々に晴れていくようだった。
『死者に次の作品は生み出せない。そのさらに先へ進むことができるのは、生きている者だけです』
かつて聞いた彼女の言葉が脳裏に蘇る。
生きている者だけが先に進める。じゃあ今生きているはずの僕は、こんなところに留まって一体何をしているんだ。
泥の中に沈んだ足を一歩、引き上げる。
『耳と指があればピアノは弾ける。そしてお兄様にはお兄様の……殿下には殿下の音があります』
彼女の熱が、言葉が、音楽が、あの頃膝を抱えて蹲っていた僕を引き上げた。
その熱い音楽を紡ぐ手の温度でさえ、僕は知っている。
学園で彼女と過ごした日々、あの音色を、忘れるはずなどない。
深く暗い、目の前の霧を薙ぎ払う。
けれど払っても払ってもキリがないそこに、また新たな音が届いた。
甘く美しい旋律。波のように寄せては返す……
……愛が滲む音。
「……アン、ナ……」
闇に覆われていたはずの視界が鮮明に色づき始めた。
錆び付いたように動かしづらい体をなんとか動かせば……ピアノの前に座った、赤いドレスの女性が見えた。
僕の知る彼女の見た目とはまるきり違う。
透き通るような美しい黒髪はくすんだブロンドの下に隠れ、紅を差すだけで十分華やぐはずの端麗な顔には、余計な色がたくさん乗っている。
知っている彼女とはまるきり違う——けど、彼女を間違えるはずもない。
僕にはわかる。彼女の音、彼女の訴え。
今、会場中の誰もが息を呑んで見守っている彼女の演奏が、誰への愛を奏でているか。
胸の奥で、ドクンと大きな脈動が跳ねた。
僕を縛り付けていた冷たい呪縛が、木端微塵に砕け散っていくのを感じる。
「な、何よあの女……一体誰のパーティーだと思ってるの? 誰か! 今すぐその女の演奏をやめさせ——」
会場の主役を奪われたエヴァがヒステリックな声を上げる。
その瞬間、僕はエヴァの手首を掴み上げた。
「ひっ……!?」
痛みにエヴァが引き攣った悲鳴を漏らす。
僕はそんな彼女を見下ろして、静かに言った。
「止めるな」
自分で思ったよりも冷酷で低い声が出た。
危険を感じ取ったエヴァが全身を強張らせる。
「……ここからがいいところだ」
ピアノの音色は一番の盛り上がりへと向かう。
一度彼女がこれを弾いているのを聴いたときは『まるでなってない』と文句をつけたものだけど、そのときの音とはまるで違った。
あのときは空っぽだった音楽に、今は彼女のすべてが乗って、この広い会場の隅々にまで響き渡っている。
まさに魂をかけた演奏。最後の音が消えても、会場はその余韻で静まり返っていた。
「あ、あ……ルチアーノ、殿下……?」
この会場でエヴァだけが、音楽どころではなくガタガタと打ち震えている。
僕はそんな彼女に、さらに後悔を刻みつけてやるつもりで告げた。
「お前は超えてはいけない一線を超えてしまった。……相応の覚悟をするんだな」
言葉を失うエヴァ。僕はそんな彼女を突き放して、どこへともなく声をあげる。
「ヴァンクール、いるんだろう! この女……エヴァ・ドラマーティコとドラマーティコ公爵を拘束しろ!」
「はい、承知いたしました」
「いや、待って殿下、待って! いやーーーー!!」
声は聞いたものの、ヴァンクールがどこから現れたかももはや確認しないまま、僕は迷いなく歩き出した。
ピアノの前で呆然と立ち尽くし、こちらを見つめている彼女——アンナのもとへ。
もう隠す必要も、遠慮する必要もない。
僕は彼女の細い肩を引き寄せ、会場中の人間に見せつけるように、力強く抱きしめた。
「る、ルチアーノ殿下……!」
「ありがとうアンナ……助けるつもりが、逆に助けられてしまった」
耳元でそう囁けば、アンナは一筋の涙を流した。
「もとに……戻ったんですね……」
「アンナのおかげだ」
「よかった……」
震えるまつ毛が愛おしく、思わず軽く口付けたら一瞬で頬が真っ赤に染まった。
「は? ちょ……!」
「この恩は一生かけて返していくよ」
「え?」と呟く彼女の肩を抱き、僕は招待客達を振り返る。
そして高らかに宣言した。
「みんな聞いてくれ! このアンナ・リリコックこそが……僕の婚約者だ!」




