36話 生意気だけど、いじらしい
ガラリ。
赤い目の主はどうやったのか、内側から鍵が閉まっていたはずの窓をすんなり開けた。
そして腰を抜かして座り込む私の前に優雅に降り立つ。
「ご無沙汰しております、アンナ先生。お元気そうで何よりです」
「ヴァ……ヴァンクールさん!?」
月光を背に窓の外に浮いていたのは、あの美貌の魔精霊だった。まぁ精霊なら浮くこともあるかとほっと息をつく。
「驚かせてしまったようで申し訳ございません」
「いえ、こちらこそ……」
ヴァンクールが差し出してくれた手に甘え、立ち上がらせてもらう。そのままさっきまで座っていた椅子に再び腰を下ろした。
「それより、一体どうしたんですか?」
学園からこの家まで、馬車で丸一日はかかる。ずっと飛んできたとかならまぁ、それより短いのかもしれないけど……ともかくフラッと気軽にやってくるような距離ではない。だからこそ、これは何事だろうかと身構えた。
「はい……実は、アンナ先生に助けていただきたいのです」
「わ、私に?」
割と私も助けてもらいたい側だけど、大丈夫そう?
「もはや私にはどうすることもできず……アンナ先生の手を借りる他に手立てはありません」
「そんなことがありますか……?」
「はい。まず私ですが、先日仕事をクビになりました」
「へ!?」
「ルチアーノ殿下のご意向です」
「な、ななななぜそんなことに……?」
「理由は後ほどご説明します。……次に、エヴァ様——いや、ドラマーティコ家の小娘が、殿下の婚約者となりました」
「は……!?」
「それに際し、急ですが明日の夜、正式に殿下の婚約者を発表するためのパーティーが開かれることになっています」
ヴァンクールは淡々と語っているけど、何もかもが怒涛の展開すぎる。
感情の置き場がどこかもわからないまま、
「それで私は何をすればいいんですか?」と結論を求めた。
「パーティーに乗り込んでぶち壊してください」
なんて!?!?!?
「ぶ、ぶち……!?」
「おっと、失礼。つい言葉が乱暴になってしまいました。……アンナ先生には、殿下を止めていただきたいのです。取り返しのつかないことになる前に」
影を帯びたヴァンクールの瞳が、まっすぐに私を見つめる。
「どういう意味ですか……? そもそもなぜルチアーノはエヴァと婚約なんて……」
「殿下は……アンナ先生が学園を去ったあの日以来、人が変わってしまわれました」
「人が変わった?」
「ええ……まるで魂を抜かれた人形のようです。何もかもドラマーティコの小娘の言いなりで動いている……。婚約も、私の解雇も……すべて小娘の命令のままに」
冷たいものが背筋に走った。あの生意気で誇り高い少年が、人形のように操られているって……にわかには信じ難いけど、ヴァンクールがそんな嘘をつくはずもない。
「なにそれ……どうしてそんなことに?」
「古代魔術によるものかと思われます」
「魔術……!?」
「ええ。人間を傀儡に変えてしまう魔術で、ドラマーティコの小娘が扱えそうなものに……一つだけ心当たりがあります」
思わず唾を飲む。ヴァンクールは重々しく続けた。
「殿下は……〝禁断の曲〟を聴かされてしまったのでしょう」
私が殿下の傍を離れていたばかりに……とヴァンクールが悔しげに顔を歪める一方で、私は「曲?」と、まさかの回答に目を白黒させた。
曲? 音楽なの?
「はい。〝禁断の曲〟は聴いた者の精神を侵し、演奏者の意のままに操れるようにしてしまう悪魔の旋律。……五百年ほど前、私の友人の一人が生み出した代物です。あまりにも人道に反していると、四百年前にドラマーティコの系譜にある魔道士が封印したはずだったのですが……その封印が解かれてしまったのでしょう」
「そ、そんなものが……。それで、その洗脳を解く方法は……?」
「わかりません」
絶望的な言葉が響く。ヴァンクールはそれから縋るように言った。
「ただ、あなたに会えば殿下も目が覚めるかもしれない……!」
(そ、それは……)
一か八かとかいうレベルを超えて、まるで眠り姫のキスのような奇跡を期待しているかのよう。
そんなロマン全振りの手しかないのかと、絶望は更に深まった。
しかも王子役が私なのが殊更厳しい。謙遜とかそういうのじゃなくて事実として、この世界における私はただのモブ教師だから。
戸惑う私を察したのか、ヴァンクールは一度冷静に身を引く。それからどこからともなく、「これを」と一冊の分厚い冊子を取り出した。
バーガンディー色の表紙には、あの音楽祭の日付が金文字で刻まれている。
「これは……」
表紙を捲る。まず、綺麗な手書きの目次があった。そこには音楽祭で演奏された曲が、当時のプログラム順に並んでいる。
目次の次は——『情熱大陸』の楽譜。さらにページを追うごとに、あのとき生徒達が演奏した曲の楽譜が漏れなく綴じられていた。
「夏休みの間に、殿下が編纂されたものです」
「え……? でも私が持っていた楽譜は、あのときエヴァに燃やされて……」
「ええ。殿下は燃やされた楽譜に気が付き、居てもたってもいられなくなったのでしょう。帰省中の生徒達一人一人を訪ね歩いて楽譜を集め、写しを取りました。……最初は焼却炉の中の灰をかき集めて復元しようとしていたのですが、さすがに難しく……」
「ルチアーノがそんなことを……!?」
夏休み中にルチアーノが学園にいなかったのは王城に帰省してたんじゃなくて、生徒達の家を回っていたからだったの?
信じられない思いでパラパラとページを捲る。
楽譜集の最後には当然、ルチアーノが作った曲も載っていた。最後にナタリーが歌ったあの曲には『革命に花を』とタイトルが添えられている。
『タイトルはどうやってつけるものなんだ?』
『好きなようにしたらいいと思いますけど……モチーフとか、何をイメージしたかとか……?』
あの日の会話が耳の奥で蘇る。
……そっか。ナタリーのための曲だと思っていたけど、そうではなくて。あなたはそんな想いを込めて、この曲を作ってくれていたのね。
今更知った彼の思いに胸が熱くなる。今日だけで私は何度泣かされるんだろうかと目尻を拭う。
……けれど。その隣に並ぶ、あの曲の……ピアノ独奏の方のタイトルスペースには、何の記載もなかった。ただ真っ白な余白が広がっている。
「本当は新学期始めのあの日に、殿下からお渡しするはずだったのですが……」
「この……無題の楽譜のままで?」
ルチアーノはあえて名前をつけないことを選んだのか。それは一体、どんな気持ちで。
——私が言えた立場じゃないのは百も承知だ。
けど、無題のままでいいわけがない。この曲には、ちゃんと曲名があるんでしょう?
それを彼に書いてもらわなきゃ、この楽譜集は完成しない。
「……わかりました。行きましょう、ルチアーノを助けに!」
「アンナ先生……!」
ギュッと握りしめた手の中で、楽譜集の重みが誇らしく愛おしい。
エヴァへの教育的指導だってまだ済んでいないのだ。
二人まとめて、特別授業よ!




