35話 まるで夢のよう
学園を追われて数日が経った。
その間にも学園側からは何も連絡はなく、もう学園に戻ることはほぼほぼ諦めている。
なにせ状況が悪すぎる。ワンチャンあるとして、ルチアーノやエヴァの卒業後だろう。
たった五ヶ月そこらで出戻ってくるなんてと父からは顰蹙を買うかと思ったけれど、妹の縁談が決まったこともあってか思いのほか家庭はあたたかだった。
妹はとても良い縁談が結べたらしい。もうすぐ家を出ていく寂しさなんて微塵も感じさせず、毎日幸せそうに過ごしている。今日だって婚約者の彼と、新生活に向けての買い出しに出かけた。
父も母も何かと忙しくしていて、家に残されたのは私一人。
今更婚活もしんどいし、これからは妹の分まで家事をがんばって家族の役に立つことぐらいしかできないと、帰ってきてからはとにかく掃除をしたり洗濯をしたりして過ごしている。
まぁそれでも、教師として学園へ行く前の生活に戻っただけ。少々肩身が狭いことを除けば、特段不満も不自由もない生活だ。
「よし、できた!」
ピカピカに磨き上げた応接室のテーブルを眺めつつ、額に浮かぶ汗を拭う。
「次は……」と、壁際に置かれた黒塗りのアップライトピアノの前に立った。
蓋の上に薄らと埃が積もっている。この家でピアノを弾くのは私だけだから、私が家を出てからずっと放置されてきたのかも。
乾いた布を当て、丁寧に蓋の上を拭きあげる。家を出る前まで毎日そうしてきたように。
(……鍵盤も拭いておこうかな)
蓋を開いて、布越しに鍵盤に触れる。
ポーン……と、なんだか既に懐かしい、『我が家のピアノ』の音が鳴った。
——そしたらもうダメだった。
堪らなくなって、布を床に捨てて鍵盤に指を置く。
立ったまま、手癖だけで指を動かした。
リスト『愛の夢』
甘く切ない、まさにどこか夢見るような旋律が美しい。美しすぎて、じわりと目に涙が浮かぶのを堪えきれなかった。
「……っ」
ピアノに触れれば、未練が湧くのはわかっていた。
『不満も不自由もない生活』……そんなのはただの虚勢に他ならない。
音楽に目を輝かせる生徒達に囲まれるあの生活を知ってしまった今、一人で奏でるこんな音楽は虚しいだけだ。
教員生活は常に授業準備に追われて寝不足で、時間外労働まみれでロクにお昼ご飯が食べられないような日も沢山あったけど。そんなのは大して苦にならないぐらい……
思えば、夢のような日々だった。
「——帰ってきてから初めてね、姉さんがピアノを弾くの」
曲を最後まで弾ききった後、応接室の扉が開いて、妹のマリアがそう言って顔をのぞかせた。
「マリア……」
彼女はコツコツとヒールの音を響かせながら部屋へと入り、ピアノの縁に手を添える。
「私、やっぱり姉さんのピアノが大好きよ。……でも今日のは、なんだかとっても悲しい音」
「そんなことがわかるの?」
「あら、何年姉さんのピアノを聴かされてきたと思ってるの?」
「生まれた時からかもしれないけど……でもずっと、嗜み程度にしか弾いてなかったし」
「た、嗜み? あれが? 毎日毎日ピアノを弾いてばかりだったくせに……よく言うわ」
あれ? 私ってそういう認識?
そっか、一日14時間ピアノを弾いたりしてた前世と比べれば、今世の私は『嗜み程度』のつもりだったけど……家族からすれば普通に呆れるレベルの、立派なピアノ狂いだったのか……。
「あはは……マリアも弾けばいいのに」
「冗談。姉さんの音と比べられる私の身にもなってよ。それに私は、弾くより聴く方が好きなの」
「……!」
そう言ってにんまり笑うマリアに、まったく似てもいない誰かさんの姿を重ねた。
「……学園の生徒にも一人、同じようなことを言ってた子がいたわ。お兄さんのピアノを聴くのが好きだって」
「まぁ……じゃあその子も私と一緒。幸せ者ね」
「座って」とマリアがピアノの椅子を引く。そこに私を座らせて、自分は応接テーブルの前のソファに座り込んだ。
「幸せ者……」
「だってそうでしょう? 好きだと思えるものに出会えるって、幸せなことだわ」
妹の話を聞きながら、私はここにはいない生徒のことばかり考えていた。
『〝アンナ〟だ。あの曲の名前は、それしか考えられない』
あのときの言葉が脳裏に蘇る。
彼は……ルチアーノは私と出会って、幸せだっただろうか。
ぼうっとする私に、「ねぇ、何か弾いて」とマリアがせがむ。
よく考えたらマリアとルチアーノはこういうところもよく似ている。
末っ子ってこういうものなのかなと少し笑って、たしかマリアが好きだったはずの曲を弾き始めた。
そのうち、どこか独り言のようにマリアが言う。
「……父さんも母さんも、姉さんのピアノを愛してる。だからこそ父さんは、姉さんには縁談ではなく音楽の仕事を取ってきたんだわ。……素直にそうは言わないけど」
指を動かしながら、目の奥がまたじわっと熱くなるのをなんとか堪えた。
ああ、私って……人生二週目のくせに、なんて愚か者なのかしら。
◇
「そういえばさっき手紙が届いてたから、姉さんの部屋に置いておいたわよ」
マリアからその言葉を聞いて、私の気持ちはまた重く沈みこんだ。
(学園からのクビ宣告かも)
そんな想像を巡らせながら階段を登って部屋へ入り、文机の上に置かれた封筒を薄目で見てみる。
……王立学園の校章が印字された専用封筒だった。
(ああああ絶対にクビ宣告だドミトリーが諦めたんだ)
待機命令解除の通知だって同じ形で来るはずだけど、とてもそんな確率の低い期待をすることはできない。
というか期待して落とされるのが嫌なので、もうとにかく覚悟と心の準備をすることにした。
(別の仕事を探そう。いっそピアニストを目指すとか。いやでもピアノが好きだからこそ、ピアノを直接仕事にするのは嫌だったのよね。いやしかしそんな選り好みしてる場合じゃない。「リリコック家の娘さん、仕事クビになったってね」「たった五ヶ月でねぇ」とご近所の噂になる未来はすぐそこだ)
そうやって先回りしていろんなことを考え尽くした頃には、窓の外の太陽が沈みかけていた。
さすがにこれはまずいと封筒を手に取る。
そして意を決して封を切った。
「! 手紙……」
中身は退職宣告でも、待機命令の解除通知でもない。
『Dear ANNA』から始まったそれは、ヨナスからの手紙だった。
『アンナ先生、今は辛いかもしれないけどどうか負けないで。君のためにできることを俺もずっと探してるよ。少しでも早く君が学園へ帰ってこられるように、そしていざ帰ってきたときの学園が心地のいい場所であるように、俺が必ずなんとかしてみせる。安心して。大丈夫、ここにも君の味方はたくさんいるから。』
「ヨナス……」
手紙を抜いても、封筒にはまだずっしりとした重さがある。
なんだろうと思いながらひっくり返せば、たくさんのメッセージカードが机の上に広がった。
それらは音楽科の生徒達が書いたものだった。
『捏造記事なんて私達は信じていません! 先生とまた演奏がしたいです。早く戻ってきてください!』
『みんなアンナ先生のことが大好きです。先生のことを信じて待っています。』
『まだまだアンナ先生から音楽を教わりたいです。絶対に辞めないでください!』
——ボタボタボタ。
机の上に、とめどなく溢れる涙が落ちる。
自分の不甲斐なさで胸が痛んだ。
でもそれ以上に、あまりにも恵まれていること、幸せすぎることに胸が張り裂けそうだった。
それからヨナスの手紙はこう続いていた。
『今は生徒達主導で、アンナ先生の復職を求める署名活動をしているよ。アンナ先生のこれまでの活動実績もまとめて、上に提出するつもり。きっと君の今までの努力と情熱は君自身を裏切らない。信じていて。』
手紙を読み終えた私の手は小刻みに震えていた。
今度は自分に対する怒りの気持ちでいっぱいになったのだ。
学園でヨナスや生徒達が戦ってくれている間に、私は一体何をしていたのか。
早々に諦めて家事手伝いに逃げて、三年生卒業後のワンチャンに賭けたりして。恥ずかしい。本当に情けない。
「こんなに可愛い生徒たちが、私を待ってくれているっていうのに……!」
震える拳でドンと机を叩いて、勢いのままに立ち上がった。
公爵家が怖いことに変わりはない。だけどこのまま、家で大人しく指を咥えて待ってなんていられるか!
「もう逃げない! 学園に戻って絶対に教師を続けてやる!」
そう決意して、出陣の荷物をまとめようと回れ右をした——その時だった。
ふと視線を感じて振り返った窓の向こう……闇の中に二つの血のような赤い目玉が浮かんでいた。
目が合った瞬間、その目玉が三日月のようにニィッと歪む。
え……待って、ここって……二階よね。
「ぎ……ぎゃあああああーーーー!!」




