33話 過ぎた幸せだったのだ
夏休みが終わってしまった。
一悶着あったあの日以降は、ルチアーノも王城に帰省していたのか、学園内で出会うことはなかった。
私は正直その状況に安心していた。そもそも会わなければ、身の振り方に悩むことも、これ以上ルチアーノを傷つけることもないから。
けれど今日からはもう、そういう『ラッキー』はない。
(毅然とした態度で、隙を見せない)
とりあえず気をつけること、として決めていることをもう一度心の中で唱えた。
それから重い足取りで出勤。正門をくぐる。
けれどその後すぐに、いつもと違う異様な空気に足を止めた。
何やら学園全体がざわついている。登校してきた生徒達が、口々に何かを囁き合いながら掲示板の周りに集まっているみたいだった。
「何? どうかしたの……?」
「アンナ先生!」
不審がる私のもとへ、青ざめた顔のナタリーが駆け寄ってきた。
「ナタリーおはよう。久しぶりね。一体なにが——」
「掲示板に、学園新聞が貼られていて……そこに、アンナ先生のことが……!」
「私のこと?」
ナタリーはその先を言い淀んでいた。
何やら随分よくないことが書かれているらしい。夏休み明け早々ついてない。私がこっちでは教員免許も何も持ってないモグリだってすっぱ抜かれたかな。
何が書かれてるかなんていっそ知りたくないけど、知らなきゃ始まらない。仕方なく掲示板の前へ進むと、恐ろしいことが起きた。
私に気づいた生徒達が、私を避けてさっと左右に割れていくのだ。
まるで旧約聖書のモーゼが開いた道のように、私の前だけにぽっかりと空間ができる。
(これは……想像以上)
肌に突き刺さる痛烈な視線と、クスクスという忍び笑い。
不審と恐怖に胸をざわつかせながら掲示板の前に立つと、そこには刷り立てのインクの臭いのする新聞が大きく張り出されていた。
『魔性の女アンナ・リリコックの真実』
デカデカと躍る不吉な見出し。吸い寄せられるように文章に目を通し、私は絶句した。
『アンナ・リリコックは貧乏男爵家の身分を逆手にとって同情を引くことで、生徒R、生徒の従者V、同僚Y、上司D——その全員を手玉に取る悪徳教師である』
——そこにあったのは私に対する徹底的な糾弾。
極めつけは一枚の写真。
写真は最後にルチアーノと会ったあの日のものだった。
木の幹に体を預けて寄り添い合う二人の男女の姿。白黒で写りも悪く、これを見ただけでは実際誰と誰かなんてわからない。
けれど写真に添えられた文は、
『生徒Rと旧校舎裏で淫らな行為に及んでいたアンナ・リリコック』
「ひどい……」
状況が完全に私のキャパを超えている。頭が真っ白になりそう。
「アンナ先生……」
震える私の隣で、ナタリーが消え入りそうな声で心配そうに見上げてくる。
大丈夫よ、となんとか気丈に振る舞いたいのに上手く声が出てこない。
——そのとき、目の前でその新聞が破り剥がされた。
「チッ……剥がしても剥がしてもいつの間にか復元される」
「る……ルチアーノ……殿下……」
ルチアーノは破り取ったそれを手の中でぐちゃぐちゃに丸めた。
私はその様子を眺めながら、零すように呟く。
「たぶん……エヴァが……」
糾弾の内容があのときの彼女のセリフと同じだ。間違いない。
「ああ。エヴァはあのときヴァンクールと一緒にいたから、写真はおそらくエヴァの従者が撮ったんだろう。気づかなくて悪かった」
「いえ、私こそ……あ」
そこで初めて、周りの生徒達のざわつきの種類が変わっていたことに気がついた。
「生徒Rってやっぱり……?」「嘘でしょ、そんな……!」
指先からスっと温度が消えた。
同僚Yや上司Dと違って、生徒Rだけはかなり情報が濁されていた。写真だってぼやけていて、この後ろ姿が誰かなんてわからない。
今私が余計なことを言わなければ、ルチアーノだけはこの不名誉なレッテルから逃れられたのに——!
「ごめんなさい、私……!」
「大丈夫だ、安心しろ」
取り乱す私の冷えきった手を、ルチアーノの手がそっと包み込んだ。周りの女生徒から悲鳴が上がる。
「僕が必ずなんとかする」
私を安心させるように向けられる微笑み。
心臓がきゅう、と切なく痛んだ。
(や……やめろ私! 守るべき生徒をあてにするな!)
限りなく弱っているらしい心を叱責する。
「いえ、私が自分でなんとか……」と、さりげなく手を離した。すると、
「全員何をしている! もうすぐ始業時間だ、教室に戻りなさい!」
重々しい足音と共に、伸びやかなバリトン声が廊下に響き渡った。
それを受けて、生徒達は蜘蛛の子を散らすように散り散りになって走り去る。
現れたのは、表情を硬く強張らせたドミトリーだった。
「副理事長……」
「……アンナ先生。今から副理事長室の方へ来てくれたまえ」
◇
「副理事長……私のせいで、副理事長まで巻き込んでしまって申し訳ありません。あんな不名誉な記事……」
「君が謝ることじゃない」
「いえ……きっとエヴァ・ドラマーティコが新聞部にあの記事を書かせたんです。学園から私を追い出すために……」
副理事長室に入るなり、私は深々と頭を下げた。
いきなり公爵令嬢の名前を出したとて信じてもらえないかもしれない。けれど事実を伝える他に手段もない。
ドミトリーは深く椅子に腰掛け、「顔を上げなさい」と言って苦々しい溜息をついた。
「アンナ先生……もちろん、あんな記事がでたらめだということくらい私には分かっている。……エヴァ・ドラマーティコが裏で関わっているのも、まず間違いないだろう」
「え? それは……」
ドミトリーは机の上で両手を組み、険しい顔で私を見つめた。
「ドラマーティコ公爵家から、学園へ圧力がかかっている。『学園にそぐわない不届きな教師を、今すぐ辞めさせろ』……とな」
「そんな……公爵家から……」
すでにエヴァ一人の企みではない。公爵家を巻き込んだ——いやむしろ、公爵家主導の謀略だろう。
(何がなんでもエヴァを、ルチアーノの婚約者にするために……)
「……何しろ、今のこの状況だ。このままでは君がまともに授業を行うことすら不可能だろう」
ドミトリーの顔に滲む葛藤。
彼自身、記事の中では『手玉に取られた被害者』の一人として書かれているのだ。今彼が私を強くかばい立てすれば、それこそ「本当に骨抜きにされている」と噂を補強してしまう手詰まりの状態だった。
「公爵家の圧力については、必ず私がどうにかする。だが……君には事態が落ち着くまで、本日より自宅待機を命じる。……休養の暇を得たと思って静観してくれ」
冗談じゃない。冗談じゃないわよ。
……喉まで出かかった怒りの言葉を、私は必死で呑み込んだ。
相手は筆頭公爵家。下手に私が楯突けば、ただでさえ細々と暮らしている貧乏男爵家の我が家なんて、一体どうなってしまうことか。
「……わかりました」
震える拳をぎゅっと握りしめ、今一度深く頭を下げた。
「お世話になりました」
——新学期初日。こうして私は出勤したての学園からとんぼ帰りで、失意の帰路をたどることになったのだった。




