32話 できることならあの夜をいつまでも過ごしていたかった
かつてないほど冷ややかな視線が私を見下ろす。
情けなくも私はその目に体が竦んで、その場から動けなくなった。
「けれど殿下……」
「ヴァンクール」
なんとか歩み寄ろうとするエヴァを無視して、ルチアーノは冷徹にヴァンクールへ無言の指示を飛ばした。
「かしこまりました」とどこからともなく現れたヴァンクールがエヴァの前に立ち塞がる。
「は? ちょ、ちょっと……」
「エヴァ様はどうぞこちらへ。ティータイムのご準備をいたしましょう」
「え? ルチアーノ殿下もあとでいらっしゃいますの? ねぇ?」
「ええ、ええ、いらっしゃいますとも」
おそらくすごく適当なことを言いながら、ヴァンクールはエヴァを連れ去った。
私も連れて行ってほしいな。と私はそんな二人を悲しく見送る。
「アンナ」
ルチアーノが私に向かって歩いてくる。
私は条件反射でその分後ろに下がった。
「殿下……あ、私、まだ仕事中でして……」
きっとルチアーノと話すべきことはたくさんある。
ナタリーの家に置いて帰ってごめんね。
さっき傷つけるようなことを言ったのも。
でもあれが、私の正直な気持ちでもあるのよ。
——そう、伝えるべきことはたくさんあるのに、私の体は逃げに徹している。
面と向かってルチアーノを傷つけることが辛い。
もう黙って飲み込んでくれたら……そういうものだと大人しく諦めてくれたら、ただ楽しくピアノを弾いていただけの教師と生徒に戻れるのにと。彼に物分りの良さを求めてしまっている。
ドン。そのうち背中が大きな木の幹にぶつかった。
「あ」と思っているうちにルチアーノがすぐ目の前まで近づいて、逃げ道を塞ぐように私の顔の横に手をつく。
「で、殿下……」
「さっきの話であんたのポリシーはよくわかった。……僕はあんたのそういう真面目なところも嫌いじゃないよ」
一瞬、わかってくれたのかと思った。だから仕方ないかと続くのかと思ってしまった。
けれど依然としてルチアーノの目は、静かに怒りを湛えている。
「……けど気に入らないな。どうしてその話を僕ではなくエヴァにするんだ。コロラトゥーラ嬢がダメだとわかったら、次はエヴァか?」
「えっ」
「エヴァを僕に押し付けて、自分は逃げようとしたんだろう?」
息がかかるかと思うほどにルチアーノの顔が近づく。
それをなんとか押し返そうと胸に手を当てるも、びくともしない。
「ちが、そんなんじゃ……!」
ただエヴァに嫌がらせをやめさせたかっただけだ。
けれどそれを知らないルチアーノからすれば、エヴァに『だから私のことは気にしないで』と伝えていたようにしか見えないのではと、今更気がついた。
おそらく私は、思っていた以上に彼を傷つけている。
「ルチアーノ、ねぇ聞いて」
「いやだ」
都合の悪いことを聞かされると思っているのか、ルチアーノは私の言葉に耳を貸そうとしなかった。
「一体僕があそこで……あの山の中で、どんな思いであんたに触れたと思ってるんだ……! 都合よく人に押し付けて、『ありえない』で片付けられてたまるか……!」
「——っ!」
ルチアーノは今にも泣きそうな顔をしていた。
ここまで感情を昂らせている彼は初めて見る。
彼が本気なのが、嫌でもよくわかった。
(……だめだ、もう傷つけたくないとか言ってる場合じゃない)
もう元にも戻れない。音楽館で過ごす二人きりの夜はもう二度と作ってはいけないんだ。
こんなルチアーノに『物分りのいい生徒』であることを押し付けることはできない。しちゃいけない。
私は覚悟を決めて、再びルチアーノの胸を強く押した。
「……殿下、ナタリーが幼馴染ルートだったのは残念だけど、あなたにふさわしい人は他にも必ずいるわ」
「っ……!」
私が教師であり続けるためにも、私に執着してしまうルチアーノを解放するためにも。深く傷つけてでも、嫌われてでも……今、彼を全力で突き放さなければ。
「アンナ……!」
「アンナ先生、です」
冷静を装いながら淡々と返せば、ルチアーノは小さく息を呑んだ。
「……エヴァがそうだとは言いません。けれど少なくとも……私じゃない」
そう言い終えるや否や、ルチアーノが強引に私の顎をすくい上げた。
「っ……」
「わかってるのか? 僕は未来の国王だ。あんた一人のことなんてどうとでもできる」
ルチアーノの顔がさらに近づく。
その唇が触れる前に、私は互いの顔の間に手を差し込んだ。
「………………」
私に口を塞がれたルチアーノが、これ以上ないほどに忌々しげな目で私を射抜く。
もちろんルチアーノの言う通り、彼が本気を出せば私の職だろうと伴侶だろうと意のままに操れる。無駄な抵抗と言われればそれまでだ。でも、
「私に『不自由』を押し付けるの?」
兄が亡くなって、替わりの王太子とならざるを得なかったルチアーノは、痛いほどにその苦しみを知っている。
そしてそれを私に強いるような、酷いことができる子ではないはずだ。
「あなたは自由な音楽が好きでしょう?」
ルチアーノの喉がひくりと動いた。図星を突かれた顔だった。
それでもしばらくは、意地を張るようにこちらを睨みつけたまま動かなかった。
けれどやがて、根負けするように——いや、これ以上は自分自身を偽れないというように、ふっと肩の力が抜けた。
それから口を塞ぐ私の手を、自らの手でゆっくりと包み込んで引き剥がす。
「……ああ、だから押し付けない。だけどいつか必ず選ばせてやる」
「え……」
ルチアーノの手が背中に回って、力強く引き寄せられた。突然のことに踏ん張れなかった私の体は、いとも簡単にルチアーノの腕の中に収まってしまう。
「殿下……!」
「僕は諦めないからな。いつかあんたが、自ら僕の胸に飛び込んでくるまで」
耳元で囁かれ、甘く背筋が粟立った。
思わずルチアーノの体を押し返す。意外にも今度はすんなりと離れてくれた。
それから不敵な笑みを浮かべると、
「ちなみに僕は、もうすぐ十八だ」
最後にそれだけ言い残して、ルチアーノは立ち去った。
「……はあ……?」
成人するからいいだろ、ってこと?
だめだ、何もわかってない。それでも生徒は生徒でしょうが。
立ち去るルチアーノをそのまま呆然と見送って、ふとしたところで腰が抜けた。
さらに遅れて今になって、心臓がばくばくと悲鳴を上げ始める。
それは未来の国王に逆らったことに対する恐怖からか、それとも——……
(……ああ、ピアノが弾きたい)
とにかくこの心のザワザワを鎮めたいのに、立てないから音楽館にも走れない。
「ああ、もう……!」
——膝を抱えてうずくまる、このときの私は気づかなかった。
じっと身を潜め、この一部始終を陰から見つめる何者かがいたことに——。
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