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32/40

32話 できることならあの夜をいつまでも過ごしていたかった


 かつてないほど冷ややかな視線が私を見下ろす。

 情けなくも私はその目に体が竦んで、その場から動けなくなった。


「けれど殿下……」

「ヴァンクール」


 なんとか歩み寄ろうとするエヴァを無視して、ルチアーノは冷徹にヴァンクールへ無言の指示を飛ばした。

「かしこまりました」とどこからともなく現れたヴァンクールがエヴァの前に立ち塞がる。


「は? ちょ、ちょっと……」

「エヴァ様はどうぞこちらへ。ティータイムのご準備をいたしましょう」

「え? ルチアーノ殿下もあとでいらっしゃいますの? ねぇ?」

「ええ、ええ、いらっしゃいますとも」


 おそらくすごく適当なことを言いながら、ヴァンクールはエヴァを連れ去った。

 私も連れて行ってほしいな。と私はそんな二人を悲しく見送る。


「アンナ」


 ルチアーノが私に向かって歩いてくる。

 私は条件反射でその分後ろに下がった。


「殿下……あ、私、まだ仕事中でして……」


 きっとルチアーノと話すべきことはたくさんある。

 

 ナタリーの家に置いて帰ってごめんね。

 さっき傷つけるようなことを言ったのも。

 でもあれが、私の正直な気持ちでもあるのよ。


 ——そう、伝えるべきことはたくさんあるのに、私の体は逃げに徹している。

 面と向かってルチアーノを傷つけることが辛い。

 もう黙って飲み込んでくれたら……そういうものだと大人しく諦めてくれたら、ただ楽しくピアノを弾いていただけの教師と生徒に戻れるのにと。彼に物分りの良さを求めてしまっている。

 

 ドン。そのうち背中が大きな木の幹にぶつかった。

「あ」と思っているうちにルチアーノがすぐ目の前まで近づいて、逃げ道を塞ぐように私の顔の横に手をつく。


「で、殿下……」

「さっきの話であんたのポリシーはよくわかった。……僕はあんたのそういう真面目なところも嫌いじゃないよ」


 一瞬、わかってくれたのかと思った。だから仕方ないかと続くのかと思ってしまった。

 けれど依然としてルチアーノの目は、静かに怒りを湛えている。

 

「……けど気に入らないな。どうしてその話を僕ではなくエヴァにするんだ。コロラトゥーラ嬢がダメだとわかったら、次はエヴァか?」

「えっ」

「エヴァを僕に押し付けて、自分は逃げようとしたんだろう?」


 息がかかるかと思うほどにルチアーノの顔が近づく。

 それをなんとか押し返そうと胸に手を当てるも、びくともしない。

 

「ちが、そんなんじゃ……!」


 ただエヴァに嫌がらせをやめさせたかっただけだ。

 けれどそれを知らないルチアーノからすれば、エヴァに『だから私のことは気にしないで』と伝えていたようにしか見えないのではと、今更気がついた。

 おそらく私は、思っていた以上に彼を傷つけている。

 

「ルチアーノ、ねぇ聞いて」

「いやだ」


 都合の悪いことを聞かされると思っているのか、ルチアーノは私の言葉に耳を貸そうとしなかった。

 

「一体僕があそこで……あの山の中で、どんな思いであんたに触れたと思ってるんだ……! 都合よく人に押し付けて、『ありえない』で片付けられてたまるか……!」

「——っ!」


 ルチアーノは今にも泣きそうな顔をしていた。

 ここまで感情を昂らせている彼は初めて見る。

 彼が本気なのが、嫌でもよくわかった。


(……だめだ、もう傷つけたくないとか言ってる場合じゃない)


 もう元にも戻れない。音楽館で過ごす二人きりの夜はもう二度と作ってはいけないんだ。

 こんなルチアーノに『物分りのいい生徒』であることを押し付けることはできない。しちゃいけない。


 私は覚悟を決めて、再びルチアーノの胸を強く押した。

 

「……殿下、ナタリーが幼馴染ルートだったのは残念だけど、あなたにふさわしい人は他にも必ずいるわ」

「っ……!」


 私が教師であり続けるためにも、私に執着してしまうルチアーノを解放するためにも。深く傷つけてでも、嫌われてでも……今、彼を全力で突き放さなければ。


「アンナ……!」

「アンナ先生、です」


 冷静を装いながら淡々と返せば、ルチアーノは小さく息を呑んだ。


「……エヴァがそうだとは言いません。けれど少なくとも……私じゃない」


 そう言い終えるや否や、ルチアーノが強引に私の顎をすくい上げた。


「っ……」

「わかってるのか? 僕は未来の国王だ。あんた一人のことなんてどうとでもできる」


 ルチアーノの顔がさらに近づく。

 その唇が触れる前に、私は互いの顔の間に手を差し込んだ。


「………………」


 私に口を塞がれたルチアーノが、これ以上ないほどに忌々しげな目で私を射抜く。


 もちろんルチアーノの言う通り、彼が本気を出せば私の職だろうと伴侶だろうと意のままに操れる。無駄な抵抗と言われればそれまでだ。でも、


「私に『不自由』を押し付けるの?」


 兄が亡くなって、替わりの王太子とならざるを得なかったルチアーノは、痛いほどにその苦しみを知っている。

 そしてそれを私に強いるような、酷いことができる子ではないはずだ。


「あなたは自由な音楽が好きでしょう?」


 ルチアーノの喉がひくりと動いた。図星を突かれた顔だった。

 それでもしばらくは、意地を張るようにこちらを睨みつけたまま動かなかった。

 

 けれどやがて、根負けするように——いや、これ以上は自分自身を偽れないというように、ふっと肩の力が抜けた。

 それから口を塞ぐ私の手を、自らの手でゆっくりと包み込んで引き剥がす。


「……ああ、だから押し付けない。だけどいつか必ず選ばせてやる」

「え……」


 ルチアーノの手が背中に回って、力強く引き寄せられた。突然のことに踏ん張れなかった私の体は、いとも簡単にルチアーノの腕の中に収まってしまう。


「殿下……!」

「僕は諦めないからな。いつかあんたが、自ら僕の胸に飛び込んでくるまで」


 耳元で囁かれ、甘く背筋が粟立った。

 思わずルチアーノの体を押し返す。意外にも今度はすんなりと離れてくれた。

 それから不敵な笑みを浮かべると、


「ちなみに僕は、もうすぐ十八だ」


 最後にそれだけ言い残して、ルチアーノは立ち去った。


「……はあ……?」


 成人するからいいだろ、ってこと?

 だめだ、何もわかってない。それでも生徒は生徒でしょうが。

 

 立ち去るルチアーノをそのまま呆然と見送って、ふとしたところで腰が抜けた。

 さらに遅れて今になって、心臓がばくばくと悲鳴を上げ始める。

 それは未来の国王に逆らったことに対する恐怖からか、それとも——……


(……ああ、ピアノが弾きたい)


 とにかくこの心のザワザワを鎮めたいのに、立てないから音楽館にも走れない。


「ああ、もう……!」


 

 ——膝を抱えてうずくまる、このときの私は気づかなかった。

 じっと身を潜め、この一部始終を陰から見つめる何者かがいたことに——。


ここまで読んでいただきありがとうございます。

続きはどうなるの?と思っていただけましたらブクマを、ここまで楽しんでいただけていましたらどうか評価の方★★★★★をお願いします。

感想もいつでもお待ちしています。

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