20話 ハレルヤ sideドミトリー
揺れる馬車の中、私は昨日届いた父からの手紙を再度読み返していた。
旅行好きで自由奔放な実父は学園の理事長でありながら、ほぼすべての仕事を副理事長である私に投げ出して世界中を飛び回っている。
それ自体は全くもってかまわない。父は本来何も与えられるはずなどなかった次男の私に、誇るべき王立学園の副理事長という役目を与えてくださった。
父の慈悲深い配慮にはとても感謝しているし、父の不在が多いのも、私を信頼してくださっているからこそだと理解している。
だからこそ私は、尊敬する父に恥じない『完璧な』学園運営をしなければならない。
そう、日々自分に言い聞かせて責務を全うしている。
父からの手紙には、近いうちに一度戻るという内容のことが書かれていた。
『近いうち』というのが今日でなければいいと思う。
なぜなら今日は、学園の音楽祭の日だ。
できることなら父には、そんな無駄な時間など存在しない、普段の学園の様子を見てもらいたい。紳士淑女たらしく、規律正しく立派に勉学に励む生徒達の姿を見れば、父もきっと喜ぶだろう。「お前に任せてよかった」と、そう言ってくださるに違いない。
「まぁ大講堂で自由参加……なら問題ないか」
どうせ参加するのは音楽科の生徒だけだ。
音楽科は父の発案で創設されたものではあるが、私はその価値を常々疑問視している。
すべての音楽を否定するわけではない。しかし今や大衆文化としての意味合いが強くなったそれが、貴族の教養として必須かと問われると頷けない。
しかも創設当初から庶民の特待生も多い音楽科は、学園の経営面において大きなお荷物だ。
そのくせ彼らは、音楽祭という大舞台においても大した演奏をするわけでもない。
……そうか、ならいっそ父上にも音楽祭の様子を見ていただくべきか。現状を知れば父上もきっとわかってくださる。
音楽祭も……音楽科も、この学園には不要であると。
手紙を畳んで胸ポケットへしまう。ちょうどそのとき、学園の門をくぐって馬車が止まった。
「帰りもいつも通りに」
馬車を降りると、何やら普段に比べてやたらと周りが騒がしいことに気がついた。
何事かと視線をあげて、その先にあったものに目を見張る。
「一体なんだ……!?」
正門前の中央広場には、昨日まではなかったはずの巨大な……ステージらしきものが設置されていた。
とても一晩で組み上げられたとは思えない大きな足場。それは大きな屋根に覆われ、屋根の端には無数の照明らしきものが取り付けられている。
足場の上にはグランドピアノが一台と、なにやら見た事のない黒い箱がいくつも並ぶ。
一体何が始まるのかとステージの前には大勢の生徒がひしめき、そのときを今か今かと待ち構えている様子だ。
「いらっしゃいませー! お飲み物はいかがでしょうかー!」
さらにその周りには、何やら種々の食べ物や物品を売っているらしい屋台のテントが立ち並んでいる。物珍しそうに群がる生徒達のせいで、広場はまるで町の市場のような賑わいを醸していた。
「肉串焼きたてでーす! お早めにどうぞー!」
「こちらは本日限定! 音楽祭Tシャツと音楽祭タオルを販売中でーす!」
——なんなんだ、こいつらは誰なんだ。
なぜ我が校の広場で肉串を販売している。音楽祭Tシャツと音楽祭タオルとはなんだ。
まるで蛮族に領地へ乗り込まれたかのよう。
由緒正しき我が学園内で初めて目にする、由々しき事態だ。
体の横で無意識に握りこんだ拳がわなわなと震える。
それから怒りのままに叫んだ。
「リリコック教諭ーーーー!?」
こんなのはあの目障りな音楽教師の仕業に違いない。
そう思って巨大ステージに向かって呼びつければ「はーい」となんとも間延びした返事が聞こえた。
それからステージの後ろから走って出てきたリリコック教諭は、黒い生地に白で『MUSIC FESTIVAL』なる文字が描かれた服を着ていた。そこの屋台で売っているものと同じだ。あまりにも犯人としてわかりやすい。
「副理事長おはようございます! いいお天気ですね!」
「リリコック教諭……これは一体なんの真似だ!? 我が校をどうするつもりだ!?」
「やだなぁ副理事長。これはね、フェスっていうんですよ。夏の野外音楽フェスですよ!」
意味のわからないことを得意げに言うその態度が、ただでさえ限界を迎えかけている私の神経をさらに逆撫でた。
「まさかこれが音楽祭のつもりか……? 音楽祭は大講堂で行うものだろう……! この馬鹿げたすべてを今すぐ引き上げさせろ!」
「生徒会から許可なら得ましたよー、ちゃんと一ヶ月以上前に!」
「私が許可した覚えは——」
「あ、あと一分で定刻です。私は出番があるのでこれで! ドミトリー副理事長もちゃんと楽しんでくださいね~!」
「あ、おい! 貴様!!」
「ちなみにオープニング曲は『情熱大陸』です!」
腸が煮えくり返っている私の言葉をすべて飄々と躱して、あの女は再びステージ裏へ戻っていった。
何が許可なら得ただ、このような暴挙は生徒会の権限を超えている!
……いや待て、そもそもこのステージや屋台の資金はどこから出ている。もともと音楽祭に割り当てられていた予算などは雀の涙だ。
『ルチアーノ殿下は……私のピアノの虜ですのよ』
ここまで……ここまでなのか!?
ここまでするほどに、殿下はあの女を……!?
信じられない現実に愕然としていると、ステージを囲む生徒達が一際大きくどよめいた。
どうやらリリコック教諭と、バイオリンを抱えた生徒が一人ステージへ上がったようだ。
あのバイオリンを抱えた生徒はたしか……三年生のニコロ・パガーニだ。
リリコック教諭はピアノ椅子へ座る。パガーニは舞台中央に置かれていた一本の棒の前に立った。
本当にこんなところで音楽祭を始める気なのか。ピアノにしろバイオリンにしろ、こんな野外で音が届く距離などたかが知れている。
このステージにはリリコック教諭の、物珍しさから生徒達の気を引き、音楽祭に参加させるという狙いがあったのだろう。
しかし肝心の音楽が聴こえないようであれば、客などすぐに離れる。こんなものはすべて無駄な努力——
「——!」
リリコック教諭が激しくピアノを撃ち鳴らす。
その音は想定していた音量の何倍もの大きさになって、広場中に響き渡った。
悲鳴のような歓声が上がる。
荒々しくも美しいピアノの音が軽快に、挑戦的に、観客の高揚と躍動感を煽るようだった。
そしてそのピアノに乗るように、高く鋭いバイオリンの音が躊躇うことなく飛び出してきた。それもまた普通のバイオリンでは考えられない音量で。
それに応えるように、さらに大きな歓声が上がった。
熱く力強い、バイオリンという楽器の限界値を引き出しているかのような音色。バイオリンに触れたことがなくても、そのレベルの高さがわかる。誰もが彼の技巧に釘付けになっていた。
「ここまで腕のある生徒だったのか……!」
大講堂の音楽祭で聴く彼らの音は、いつも退屈だった。おそらくあの場にいた誰もが同じ思いだっただろう。
膜の中で漂うようなぼやけた音に、毎年代わり映えしない無難な選曲。
学生が片手間にやる音楽など、所詮その程度なんだと思っていた。
しかし今の彼の音は、この熱は、これまでとは明らかに違う。
……つい先程までは、なんとしても止めさせなければならないと思っていたのに。
私はただ呆然とその場に立ちすくむことしかできなくなっていた。
「副理事長いかがでしたか? 楽しんでもらえましたかね」
曲が終われば、呼んでもいないのに今度は向こうからわざわざ『MUSIC FESTIVAL』がやって来た。
ステージでは次の曲が始まっている。次は弦楽器の重奏らしい。ステージ上に残ったパガーニの奏でる旋律を筆頭に、幾重にも音が重なる。その軽やかなリズムに乗って、生徒達の手拍子の輪がどんどんと広がっていた。
「……ニコロ・パガーニの努力は認めよう。今日まで相当練習を重ねてきたんだろう。彼はバイオリニストの道へ進むのか? それなら音楽科で過ごした時間も無駄にせずに済むな」
名バイオリニストとして名を馳せるようになるなら、学園が音楽科を支えてきた意味も多少はあるというもの。
だがリリコックはステージを見つめつつ、静かに「いいえ」と答えた。
「ニコロは卒業後、お見合いをするか軍へ入隊するかのどちらかだそうです。バイオリニストだなんてそんなこと、考えたこともないと思います」
「しかしあの実力であれば……」
「……彼はこの学園へ入学してからというもの、演奏に対して正しい評価を受けてこなかった。音楽への肯定感が育っていなくて当然でしょう」
「!」
彼女は私を責めているのだと感じた。
お前が才能の芽を潰したのだ、と。
けれどそうではないと言うように、彼女は微笑む。
「それも、今日を機に変わるかもしれませんけどね」
ステージの上で、汗を流しながらも笑顔で音を奏でるパガーニ。そしてステージの下には、彼を取り囲むたくさんの観客達。
まさに今、彼は正しい評価というのを受けているのだろう。
「……これが君の教育か」
「あ、いや私は別に、パガーニがバイオリニストを目指すべきだとかは思ってませんよ。彼の好きにしたらいいと思います」
「なに……? 今更無責任な。そのためにこのステージを用意したのではないのか」
「やだなぁ、このステージはみんなで音楽祭を楽しむために作ったんですよ。私は常に、生徒達にはできるだけ笑顔でいてほしいと思っているので」
それだけのために、わざわざここまでのことをしたのかと驚いた。
「音楽教育って、将来ミュージシャンになるわけじゃないから無駄とか、そんな話にはならないんです。……あの子たちがいつか壁にぶつかった時、過酷な環境に立たされた時、役に立つのはここでの学びや教養でしょう。そして心の支えになるのは……ここで過ごした思い出や、ほんの少しの音楽かもしれない」
曲が終わって、拍手と歓声が巻き起こる。
今まで感じたことがないであろう熱狂の渦の中、ステージ上の演者達はこちらに向かって大きく手を振っていた。
「……たとえパガーニがバイオリニストにならず、軍人になったとしても……」
「ええ。たとえそのとき彼の傍にバイオリンがなかったとしても……音楽はきっと彼の助けになると思います」
リリコックもまた、演者達に盛大な拍手を送った。
「時折口ずさめる歌がある。足で踏んだタップに、心を踊らせることができる……音楽が教育の傍にいる意味なんて、たったそれだけのことで十分なんです」
——もう、何年も音楽教師をやってきたかのような。
その道の玄人のようなことを言われ、私は次の言葉が見つからないまま突っ立っていた。
ただリリコックは私の返答など聞く気はないようで、
「じゃあ私は運営に戻りますね! あ、肉串おいしいですよ! 食べてください!」
と、お気楽な台詞を残して走り去る。
その場に一人残された私は、またステージへと目を向けた。
次のステージは五名の男子生徒達の重唱のようだ。
一人一本持った黒い棒に向かって口を開けば、心地よく重なったハーモニーが世界に満ちた。
さらに中心の男子が足でタップを鳴らし、観客にも促す。
観客が迷いつつもタップを踏めば、演者はタップの難易度を上げる。
そのイタチごっこを繰り返すうちに観客からは笑いが溢れ、数百人のタップは冗談抜きに大地を揺らした。
「これは驚いた。ドミトリー、これが今年の音楽祭かね」
生徒達につられて足を上げかけたそのとき、背中から懐かしい声に話しかけられた。
「父上……い、いえ、理事長……! おかえりなさいませ……!」
我が父クロムド・バリートン学園理事長、その人だった。
『近いうちに』はやはり今日だったかと唾を飲む。
父上は広い額に浮かぶ玉の汗を拭いながら、めっきり様変わりしてしまった学園を見渡していた。
「やぁ、戻ったよ。ギリギリ列車に間に合ったんで、今年こそ音楽祭の様子が見られると楽しみにして来たんだが……」
「あの、いや……!」
話し声すら掻き消さんばかりに容赦なく広がる歌声に、足元の芝生を根こそぎ削りそうなタップダンス。意味不明な物品販売に、肉串……。
父と同じようにあらためて辺りを見て青ざめた。
だめだ、普段の規律も品格も何も無い、こんな音楽祭を父上に見せるわけには……!
「理事長、これは——!」
「素晴らしい」
「……え?」
「素晴らしいじゃないかドミトリー。生徒たちがみんなあんなにいい顔をして」
焦る私をよそに、父上はにこにこと嬉しそうに笑っていた。
「学園をお前に任せて本当に正解だったよ。ありがとう」
「——!」
……こんなはずではなかった。
そう言ってもらうのは、こんな場面ではなかったはずだ。
けれど——……父上の言う通りだ。
あんなに生き生きとした生徒達の表情を、私は今日初めて見た。
「……優秀な音楽教師が来てくれたおかげです」
「そうかそうか。素晴らしい人材を確保してくれたんだな。どれ、私も生徒達と同じように楽しんでくるとしよう。あの屋台は? どれがおすすめだい?」
「……肉串と音楽祭限定Tシャツです」
「よし買おう」
父上は楽しそうに体を弾ませながら、人混みへと消えていった。
私は一人、小さくため息をつく。
父上が求めていたのは立派な生徒でも、完璧な学園運営でもなかったのかもしれない。
アンナ・リリコック……彼女だけが、父と同じ目で生徒達を見ていた。
——完敗だ。
青く澄んだ空を見上げる。
生徒達の輝く瞳に勝るとも劣らない太陽の光が、私の目にはとてもまぶしい。
あんな光、私の力では到底作り出せない。
だけど彼女にはできる。生徒の未来を本当の意味で見つめ、より良い未来のためにより良い今を作ることを、本気で考えられる。
彼女なら……
彼女となら、私はこの学園をさらによくすることができるのかもしれない。
敗北感はすぐに立ち消え、今度は期待に胸が膨らむ。
こんなことは何年ぶりか。
とにかく何から始めよう。
例えば、そう……彼女おすすめの肉串を食べることから、始めてみようか。




