2話 ハレの日にはピアノがなくちゃ
「アンナ・リリコックです。どうぞよろしくお願いいたします」
ドミトリー副理事長とバチバチの火花を散らした後、私はやっと職員室での挨拶を終えた。
「あらためてよろしくね、アンナ先生。いやぁ、それにしてもさっきはすごかったね。いきなり副理事長に喧嘩腰でさ。やるねぇ」
隣の席のヨナスがひそめた声でそう言ったかと思うと、きれいなウインクを飛ばしてきた。
そう、私がバチバチにやり合っていた間も、彼は私を職員室に案内すべく待ってくれていたのだ。
「すみません、お見苦しいところを……」
「いやいや、いいものを見させてもらったよ。……でもあんまり気にしすぎないようにね。副理事長はとにかく厳しい人だから」
「はい……」
そうね、さっきはつい売られた喧嘩を条件反射で買ってしまったけど、ドミトリー副理事長の音楽不要論と戦うのは私じゃなくてナタリーなのよ。
彼女に任せておけば、学園の問題はぜーんぶ解決するの。
私はただ時を待てばいいだけ。だってただのモブなんだから。
心を落ち着けるように、淹れたばかりの温かい紅茶を一口飲む。
「じゃあいよいよ入学式だ。今から——おっと、それを飲み終わったらゆっくり向かおうか、レディ」
「はい!」
◇
豪華絢爛な大講堂で、入学式は粛々と執り行われた。
プログラムは前世の学校とほとんど変わりない。ただただ静かではあった。
しかし在校生代表としてルチアーノが壇上に上がったときだけは、新入生達の間に一瞬のざわめきが広がった。
その美しくも儚い美貌ゆえか、未来の王たる王太子との対面ゆえかはわからない。
ただルチアーノは新入生達のそんなリアクションもどうでもよさそうに、ただ紙に書かれた祝辞を淡々と読み上げるのみだった。
——この頃のルチアーノの心は深い闇に沈んでいる。
だけどそれを、ヒロインであるナタリーの歌声が掬い上げるのだ。
ナタリーは現理事長が作った音楽科の特待生。人を惹き付けてやまない歌声の持ち主と評される。
ルチアーノはそんなナタリーが夜な夜な隠れて練習する歌声を聴いて、それを兄を追悼する『女神の歌声』だと思い込む。
そして夏の音楽祭でナタリーの歌を聴き、女神の歌声の主が彼女だと知って……二人は自然と近づき、ナタリーの明るく穏やかな人柄と美しい歌声に触れることで、ルチアーノは本来の自分を取り戻していく。
(うんうん、いいストーリー! 歌で救済っていう点も、これぞ王道ヒロインって感じで素敵だわ)
まだ先のことだし私は見守ることしかできないただのモブだけど、音楽祭が今から楽しみね。
せめて二人のその瞬間ができる限りドラマチックなものであるように、音楽教師としてできることには全力を尽くそう。
そう決意を新たにしているうちに、静かな入学式はいつの間にか終わりを迎えた。
今日の予定はもうこれで終わりだけど、さっそく明日からは授業が始まる。
引き継ぎも何も無いまま着任を迎えてしまった私は当然、授業準備に追われることに。
私の授業場である音楽館は前世の学校にあるような音楽室とは大分様相が異なり、まるで音楽サロンのようなおしゃれな雰囲気だ。
高い天井に施された繊細な装飾も、壁一面に並ぶ大きな窓もとても素敵。……だけど少々、この窓の防音性が気になるところ。
一応グランドピアノに加えてヴィオラなどの弦楽器やハープなんかも置かれている。
小さなコンサートならここでも開催できるだろう。
しかしこの音楽館はなぜだか久しく使われていなかった様子で、それなりに埃が積もったりしていた。そのためまずは掃除をするところから始まって、機材を確認したり教材を確認したり。
気づけばすっかり、日が暮れていた。
そういえばナタリーが夜な夜な歌っていたというのは、具体的に何時頃のことなんだろう。歌っていた場所も知らない。さすがに堂々と学生寮の中で歌っていたとは考えづらいけど……。
(そのうちここにも聴こえてこないかしら)
……なんて楽しみにしばらく耳をすませていたものの、いくら経っても『女神の歌声』が聴こえてくることはなかった。
ここは歌声が届く距離ではなかったか、残念。まぁ授業になればいつでも聴けるしいいか。
「えーと、CDはないけど蓄音機とレコードはいくつかある。これで初日は鑑賞の授業で乗り切って——……いやいや、初日だからこそもっと能動的な授業じゃないとダメか。かといって人数分の楽器なんてないし……歌唱がいいかな」
しかしなんの歌にしようかと、部屋に唯一の本棚を漁る。
アンナとして生きてきた二十四年は貴族のお嬢様の嗜み程度のピアノしか弾いてこなかったから、この世界の歌唱曲なんてほとんどわからない。
……あら、お父様が多少強引なことをしたのかもしれないけど、私よくこれで音楽教師の職につけたわね。
ドミトリー副理事長の中の音楽の価値がほとんどない分、音楽教師なんて本当に誰でもよかったんだろう。
この世界においても、貴族や教会などの権力者の独占物であった音楽が、大衆娯楽として広がるようになってもうかなり久しい。
私の父が古い考えだっただけで、音楽は既に〝貴族の嗜み〟ですらないのかもしれない。
(かといって不要だって決めつけも……あの無音の入学式も、どうかと思うけどね)
せめて入退場のときぐらい、何か音楽を流せばパッと空間が明るくなるのに。大講堂の舞台の上にはピアノもあったし。
来年は何か流しましょうってドミトリーに今度言ってみよう。
私としては入学式といえば……
「やっぱり、パッヘルベルのカノンかな」
いそいそとピアノ椅子に腰かけ、ピアノの蓋を開く。
外は暗いけど、魔道具のライトがあるから手元の灯りには困らない。
リリコック家にあったのはアップライトピアノだから、グランドピアノに触れるのは前世ぶりだ。
ポーンと試しに一音鳴らせば、ピアノの閉じた屋根の中で音が反響した。
思ったよりは綺麗な音だ。だけどこの子のポテンシャルはまだまだこんなもんじゃない。
(……音楽館なんだし、そりゃあ防音はされてるはずよね)
まぁそうは見えないんだけど。
けれどいてもたってもいられずに屋根を全開にした。
そしてもう一度、同じCの音を鳴らす。
——ポーン……
音色は何にも遮られることなく、伸びやかに空間に響き渡った。
……いい。
ゆっくりと両手の指を鍵盤の上に並べ、それから記憶のままに滑らせる。
入学式といえば……パッヘルベルのカノン、ヴィヴァルディの『春』、モーツァルトの『アイネ・クライネ・ナハトムジーク』……気分はもう一人きりのコンサート。
この世界の音楽にも素晴らしいものはたくさんあるけど……やっぱり私は、前世の音楽が一番好きだ。
溜め込んできたものを吐き出すように、気が済むまでとにかく弾き続けた。
誰に聴かせるでもない、私のためだけの音楽を。
——だけど実はこれを、静かに聴いていた人がいた。
私がそれに気づくのは、またしばらく後の話。




