バレッタの記憶-2
--琥珀の意識は、森に逃げ込む三人の誰のものなのか。汗と焦りで滲みかけた濃い森の木々の色が、どんどん大きくなってくるのを視た。
ふと、思い出したように振り返る目線の先に、黒い煙が時折呻くように昇る炎と絡み合いながら乱舞し、煙と炎の抗衡に巻き込まれた屋敷があった。
「ああ……」
唸ったのは乳母だった。
(やはり、これは乳母の記憶か)
銀色の光沢を湛えたバレッタがあった。
「おばあちゃんはお日様に当たるとお肌が弱いから駄目なのよ」
窓の外は眩いばかりの太陽が降り注ぐ緑色の世界。木製の窓枠の外側に、小さな女の子が小首を傾げてこちらを見上げていた。
初老の婦人はにこやかに微笑みかけて、そっと手を伸ばし女の子の頭に手を乗せた。
「えへへ」
嬉しそうに女の子は微笑む。
「じゃあ、私がおばあちゃんのためにお花を摘んでくるね」
「まぁ嬉しいわ」
「楽しみにしててね」
「ええ、楽しみにしているわ」
皺とシミに塗れた腕をゆっくり振る。
壁に掛けられた鏡に映る自分の姿に気がついて、ゆっくりと鏡の前に立った。
そっと頰を撫でる。
風で緩んでほつれた銀色の髪を耳にかけ直し、初老の婦人は仕方なしに微笑んだ。
(私は結局外に出ることができない体だったけど……)
「おや、どうしたんだエディタ」
鏡の前に突っ立っている婦人の姿を覗き込むように、初老の男が笑いかけた。
「あ、お帰りなさい」
「また顔が腫れたのか」
心配そうにエディタの顔をまじまじと覗き込むと、老いたサーシュは同じく老いたエディタの頰を優しく撫でた。
「天気のいい日はあまり窓辺に近づかなくていいんだよ」
「そうじゃないの、風が心地よくて髪が乱れてしまっただけよ」
「そうだな今日は風が心地よい」
思い立ったようにサーシュは、部屋の窓をもう一つ開け放った。風が一気に部屋に入ってくる。どこか花の香りを纏ったそよ風が二人の間を通った。
「君の体質をもっとよく知っていれば」
エディタが何度も聴く夫の悔しげな言葉と、顔のシミを撫でる指。
「そんなこと、私だって知らなかったもの」
そう、誰も知らなかった。エディタ自身も乳母も、もしかしたら生みの親でさえ。
生まれつき白い肌で白い毛髪のエディタは、日光に極端に弱かったのだ。
初めて外に出て、それから知ったことだ。
「私はとても幸せよ。あなたも子供達も、私を嫌がらないわ」
外に出て乳母たちと生活を共にしていく中、乳母から自分の出生の詳しくを聞かされた時。生みの親に対する複雑な心境より、愛してくれた乳母に対する愛情と感謝を大きく感じた。
その時の心の温かさは、決して偽りないとエディタは確信している。
何より、乳母はよくこう言い聞かせた。
「あなたは日光に弱い肌を持っているけど、何一つ私たちと変わりはないわ。大丈夫よ、人には出来ることと出来ないことが備わっている。それを補うために人は一人では生きていけない生き物になっているの。
だから、あなたが外に出てみんなのように出来なくても、気にすることなど何もないわ。あなたが出来ないことは私たちがやるし、私たちが出来ないことであなたが出来ることを見つけていければいいのだから」
地下室にいた頃と、呼び名も話し方も変えた乳母は、それでもその頃と少しも変わらぬ愛おしさを籠めた手つきでエディタの髪を丁寧に梳いた。
それは、乳母が年老いて亡くなるまで、ほとんど毎日。日課のように続いたのだ。
エディタは伏せ目がちに微笑むと、そっと髪に留めているバレッタに手を添えた。
乳母の優しい声が、エディタの耳にいつでも蘇る。
「大丈夫よ、あなたは何一つ私たちと変わりはない」
乳母のその言葉が、幾重にもなって琥珀の意識に刻まれた。
嫋やかに揺れる銀色の髪の光に反射された銀色のバレッタ。
そのバレッタが陽の光を弾き、まばゆく視界を白く塗すと、琥珀の意識は拡散するように白い空間に散った。
そこから、古いフィルムカメラを観ているような一コマ一コマの映像が視えては消える。
様々な人の髪に留まり、幾つかの時代を箱の中で過ごし。
やがて完全にバレッタの持つ記憶は、箱の中のごとく真っ黒に塞がれた--。
(バレッタの記憶は--バレッタの伝えたかった記憶は、エディタという女性の時代のものだったのか)
深い暗闇の底で琥珀は自分の意識に問いかけた。
(そのままをボグダンに伝えればいいのか)
果たしてそれだけでボグダンは納得できるのだろうか。琥珀は更に自問する。
(いや、ボグダンにこの事を伝えればきっと、何かわかってくれるかもしれない)
戻ろう、としたその時。
どれほど長く開けられることがなかったのだろうという、懐かしさすら感じるほどに。
ゆっくりと一本の筋がどんどん太くなり、真ん中から半分が大きく開いたのを感じた。
眩さで目が眩んでいたが、やがてのっそりと隅から出てきた黒い山法師が、一人の女性の顔であるのを理解した。
金色のウエーブがかった髪が上品そうな、肌の白い若い女性だ。
琥珀は一瞬、その人物がエディタかと見間違ったが、明らかに彼女は別人だった。
どことなくエディタの持つ独特の儚さが、同じくらい色白の白人だったからだろうか、同調したのだ。
彼女は少し躊躇いがちに手を伸ばすと、恐る恐るといった様子でバレッタを手に取った。
それから、満面の笑みを浮かべる。
バレッタは彼女の金色の髪に添えられた。
随分と光沢は失われているように思えたが、それでも燻んだバレッタは彼女の美しい髪によく映えた。
「先祖代々伝わるものらしいわね」
バレッタを覗き込んだ女性によく似た、少し年嵩の増した女性は古いアルバムを手に、バレッタを添えた髪の女性に話しかけた。
「お姉さん、これ私が貰っていいのかしら」
「いいんじゃないの? おばあさまでさえデザインが古臭くて使わなかったって言っていたものだもの、もう誰も欲しがらないわよ」
姉と呼ばれた女性はにこやかに破顔した。
「お母さんでさえつけたところ見た事ないわよ。それなのにどうしてそんな古臭いのが欲しいの」
「アンティークでいいじゃない」
「アンティークねぇ、確かに随分経っているかもしれないわよね。それなのに、しっかりした作りなのねぇ」
「そうでしょう、それにこれはただ古いだけってものじゃない気がするの」
鏡に写した自分の髪型を、整えるような仕草で女性は微笑んだ。
「ラッキーアイテムってこういう感じじゃないかしら」
その顔が--。
ハッと琥珀は目を開いてしまった。
「どうしたの?」
目線のやや横にボグダンがいる。
「……いや、いいや」
しどろもどろに返事をするが、ボグダンは訝しげな顔で琥珀を覗き込んだ。
(何があった?)
琥珀はバレッタの記憶から現在に引き戻っても尚、自問する。
(何があったんだ?)
琥珀には見たこともない白人女性の顔だった。
エディタでも乳母でもない。
見たこともない、ただ綺麗な白人の女性だ。
(なのに何故、俺は現実に戻ってきてしまうほどハッとしたのだろう)




