バレッタの記憶−1
〔 バレッタの記憶 〕
銀糸のごとく美しい髪が、丁寧な所作で解かされていく。仄暗い地下室の中に灯された幾つもの蝋燭の炎が、梳かれては流れる髪の毛に反射をする。それが夕日に映された波間のように見えた。
朝日が差し込まない地下室には、ほとんど一日中蝋燭が灯されている。時にランプの時もあるが、それは滅多にない。
「エディタ様」
慈しみが滲んだ優しさの篭った声が少女の背後でした。生まれた時からずっと少女の世話をしてくれている乳母は、いつも変わらずに温かい手のひらで、彼女の髪を優しく梳かしてくれていた。
少女にとっては乳母が自分の母親であり、最愛の人でもあった。何よりの身内だと思っている。自分の両親を求めたことはなかったが、ある程度の年齢になると乳母は包み隠さず少女にその生い立ちの全てを話聞かせた。
あなた様のお母上は、このアルバドールガル、バロー伯爵家のご息女であります。しかしながら、訳あってあなた様はお亡くなりになったことになっております。
以後もずっと、このお部屋からお外に出ることは許されぬ身。
ご不満の事と存じますが、この乳母を母と思っていただき、使用人と思っていただき、あなた様のご家族と思っていただきたく存じます。
全ての悲しみも怒りも恨みも、全てこの私がお引き受けいたします。
あなた様の事を思うとなんとおいたわしい事だと、そうして泣き崩れた乳母の背中をそっと抱きしめて、エディタという名を与えられた少女は静かに言った。
「私には生まれた時からあなたしかいなかった。母上がどなたであろうと、ここがどんなお家であろうと。私がどんな理由でここから出られないかとか、考えたことはなかったの。
あなたの持ってきてくれるお本はとてもおもしろし、わからない文字はあなたが教えてくれる。私は全てあなたから知識と愛情をもらっているのね。私にはあなたがいてくれるだけで、全てが満足よ」
その言葉を聞いた乳母は、それからしばらくエディタの身体にしがみついて泣き続けた。
その翌日、朝の食事と共に乳母は懐から銀色のバレッタを取り出し、結わずに流していたエディタの髪をまとめて上に束ねた。
「ねぇ、それはなあに」
「代々母娘に伝わってきた髪留めです。私は母親から、そして娘へ贈るものですけども」
そこまで言って乳母は吹き出した。
驚いてエディタは振り返る。くすくすと笑う乳母は口元を押さえながら、いいえいいえ、と何度も笑いをこらえた。
「うちの娘は自分を女子と思っていないんですの」
「それなら何だと?」
「男子だと思っています。息子が上に二人おりまして、どうもそちらに影響されてしまったのですね。女の子のように接すると顔を真っ赤にして怒るんですよ。だから髪の毛も短く切ってしまって、まるでうちには男が三人いるようです」
「男子と女子は、どれほど違うのかしら」
エディタはまた元の位置に身体を向けなおして小首を傾げた。
「そうですねぇ」
少しの沈黙があった。それを知ってエディタの為になるだろうか、という迷いもあったのかもしれない。
「身体の仕組みが違うのですが、でも、結局男子も女子も人であることには変わりございません」
さらりと、最後の仕上げに乳母はエディタの首筋から両手を回し、髪の毛に空気が入るように持ち上げて肩に下ろした。
絹のように美しい髪が、束になって肩に触れ背中に流れる。
この髪を日光の下で見たら、どれだけ美しいだろう。
乳母はエディタの髪を梳かし、留めるたびに何度も何度もそう心の中で呟いた。
時は過ぎ--。
琥珀の意識は、エディタと乳母のいる風景ごと、排水口に吸い込まれた水のようにぐるぐると回る。
不明瞭に歪んだ風景が鮮明になる頃。
地下室に明るい光が差し込んでいる景色が広がった。
土ぼったい匂いと共に、爽やかな風が入り込んでくる。少し背丈の伸びたエディタは細長い窓から少し離れた場所の椅子に腰掛け、覗き込むように外の様子を伺っていた。
正午を過ぎて幾時か経てば、訪れてくれる友人ができたのだ。
彼は毎日ではないが、七日に一度、三日四日に一度と、この頃は逢う回数も増えていた。
ほんの僅かな隙間から覗いた顔に、最初は驚いたものだった。
エディタの居る部屋は地下室である。通気口のためにか、僅かな窓のような隙間が、細長く天井に近い壁面に開けられている。
地上から見れば、建物の壁と地面の隙間に僅かに見える、横に細長い通気口だ。
ある日、その拳ぐらいの大きさしかない長細い窓から入ってきていた僅かな日差しが陰った。その明かりを頼りに本を読んでいたエディタは不思議に思い、椅子を壁に引き寄せ踏み台にして窓の様子を伺った。
ふと、黒い物体が自分の名を呼んだ。
「こんにちは、エディタ」
エディタは目をひん剥いて椅子から転げ落ちると、恐怖で動けないまま隙間に目をやる。
「ごめん、エディタ。大丈夫? ねぇエディタ」
外から聞こえるのは、自分の様子を伺う声。
「あまり大きな声を上げることができないんだ、本当にごめん。君を驚かすつもりなんてなかった」
「あ、あなたは誰なの?」
「僕はサーシュ。エディタの乳母の息子」
「まぁ」
エディタは改めて椅子によじ登ると、今度はありったけ手を伸ばして窓に指を這わせた。
エディタの身長ではこれが精一杯だったのだ。
「母さんから君のことを聞いていて、エディタと友達になりたかった」
僅かに見えた白く細い指を、サーシュは無骨な縦格子の隙間から指を入れて迎えた。
指と指が触れる。
エディタにとって、乳母以外の人間の温もりだった。
「僕と友達になってくれる? 毎日は無理だけど、こうやって遊びにきたいんだ」
「ええ、嬉しいわ」
ほんの少し前の出来事のようであり、ずいぶん前の出来事でもあるような、時間差すら曖昧なほど甘い記憶。
もうすぐサーシュがやってくる頃合いだろう。
エディタはワクワクしながら細い光が差し込む隙間を見ていた。
いつもより随分賑やかな足音が聞こえた。その物騒な足音にエディタは何か不安を感じる。窓を遮る影がないことを考えれば、足音は建物側ではないだろう。
穏やかに注ぐ細い光を眺めたエディタは、自分の胸に手を当てていた。
ゆっくり埃が白く舞う風景をしばらく眺めている。
「エディタ!」
いつもの囁く声ではなかった。
「サーシュ?」
「エディタいるかい? エディタ」
待ちわびていたサーシュの声が、いつもの隙間の向こうから聞こえる。
「どうしたの? 何かあったの?」
エディタは不安を堪えて窓辺に近寄った。そして椅子に上がり精一杯窓に手を伸ばす。
外からサーシュの指が見えて、エディタはそれに縋った。
「よかった、無事だったんだね。エディタよく聞いて」
サーシュは半ば横ばいになった姿勢で、地下室を覗き込んでいる。おかげで日光は遮られ、逆にサーシュの顔がよく見えた。
「バロー伯爵が失脚する。この屋敷に火が放たれたんだ」
「しっきゃく? お屋敷に火?」
理解できないままエディタは、サーシュの指を必死に両手の指で縋った。
「母さんが今、地下室の鍵をとってそこに向かっている。西の森の出口で落ち合おう。いいかいエディタ、絶対何があっても声を出さないで。母さんの言われるままにしてくれると約束してくれないか」
「どういうこと?」
「後で説明するから。絶対また会おう」
「わ、わかったわ。私わかったわ」
アルバドールガル、バロー伯爵家は広大な土地面積だ。建物にしてもかなりの敷地面積がある。貴族同士の抗争か何かなど理由はサーシュにもわからなかった。
サーシュはいつものように屋敷に向かって歩いていると、屋敷のある方角から黒い煙を見たのだ。
火は建物のサロン側、大きなロビーから出ているらしい。エディタの居る地下室のある建物とはかなり離れている。だが、サーシュは走った。途中、エディタの居る建物に駆け込もうとしていた自分の親を見つけ、彼はひとまず建物の外からエディタの安否を確認した。
大騒動になっているのは、主に本館から正面玄関の方だった。使用人が消火に向かう足音が背後に聞こえた。誰も屋敷の者ではないサーシュがいることに気を止める者はいなかった。
乳母が地下室に飛び込んできたのはそれから間もなくだった。
「エディタ様!」
いつも穏やかな乳母と同じ人物の口から出た声だと疑わしいほど、乳母は切羽詰まっていた。開け放たれた扉は数段の階段を経てやや上にある。乳母はその一段一段をもどかしそうに駆け下りてくると、壁沿いに震えるように立ちすくんでいたエディタを抱きしめた。
「サーシュ、あなたも早く行きなさい!」
叫ぶようにそう声をあげてエディタを抱きしめたまま、細い隙間の外にいるサーシュにしっかりとした目線を送った。
「母さんも早く」
コクリと頷く。
乳母はベッドのシーツを剥ぎとり、エディタを頭からくるみ抱きかかえるように地下室の扉へ向かった。
その姿をかろうじてサーシュは見送った後、自分も立ち上がり足早に森の入り口へ向かう。
屋敷の仕組みはわかっていない。どこからエディタと母親が出てくるのか見当もつかなかった。
ならば、言われた場所で待つしかない。
建物から離れると、エディタが居た建物の奥の屋敷が盛大に炎を上げているのが見えた。舞踏会などが行われるロビーのある建物は、この辺りでは珍しい木材を贅沢に使用した繊細な彫刻で仕上げた豪華絢爛な木造建造物だった。それゆえに火の周りは激しかった。サーシュは思わず足がすくんだ。
夜な夜な煌びやかな宴を繰り広げられていた美しき時間を飲み込むように、大きな炎の竜が屋敷の屋根に登って轟くような咆哮を放っているようにも見えた。
エディタが地下室から廊下に出た頃、灰色掛かった煙が廊下を舐めるように流れ込んできていた。
乳母は一瞬躊躇ったのち、思い切ったようにエディタを抱きすくめる両腕に力を込める。
「大丈夫ですよ、ここは火の元から離れています。さぁ急ぎましょう」
背を押されるままにエディタは歩んだ。
見たこともない廊下。
見たこともない壁。
見たこともない部屋、窓、そして外--。
頭から被せられた布の隙間から見えた明るい世界。
初めて踏んだ芝生の感触に慄いて怯えた調子に、どこからか伸びてきた手に腕を掴まれた。
「あ!」
声をあげたのはエディタだったか乳母だったか。
「早く、こっちへ」
森へ行く前に二人を見つけたサーシュは、思わずエディタの腕を掴んだ。
引き寄せられるように二歩三歩と前に歩みを進めると、自然と足が動いた。
(こんなに動いたことなんてなかった--)




