ボグダン-5
御山たちはそれから程なくして帰宅した。
風呂上がりを見計らって、喜和子がホットレモネードを淹れてくれていた。それを飲み干してから琥珀は、電気ヒーターのスイッチを切った。寒い外にいた直後だったせいなのか、風呂の湯加減が身体に染み入るように心地よかった。
(いつぶりだろう、心地よいとかって感じたのは)
そんな事を微睡みに思う。
(今なら、読めるだろうか)
ふと、そんな気がして琥珀は立ち上がった。パジャマの上にパーカーを羽織って部屋を出る。
ドアを開くと冷たい空気が足元から這い上がってきた。目の前には道旗の部屋のドアがある。鍵はかかっていない。
例のバレッタは、道旗の部屋に置いてあるのだ。
ふと、横に目線を落とすと、ボグダンが階段を上がってくる姿が見えた。
「もう始めるの?」
さすがのお見通しだ。
「少し、付き合ってもらえますか」
控えめに琥珀は言った。
「湯冷めしない程度にね、だけどヤースーの部屋だったらその心配はないかな」
極度の寒がりな道旗を思って、二人は薄く笑いあった。
道旗の部屋には寒冷地仕様のエアコンがある。敷かれたカーペットは深い柿色の電気カーペットに変えられていて、最新式の温風ヒーターが冷えた空気の中で孤立しているように見えた。
琥珀の部屋にある、電気ヒーターと小さいこたつだけの殺風景な部屋とは、同じ建物内の部屋だとは思えないのだが、それ以外はいつもの道旗の部屋に変わりはない。
バレッタはベッドの横にあるサイドテーブルの上に、冷え冷えとした印象で横たわっていた。
ボグダンはエアコンのスイッチを入れて、温風ヒーターの電源を入れた。
ふわりと室内の空気が動くのがわかる。窓から染み込んできていた冬の冷たい空気は、瞬く間に暖かい微風に撹拌された。
「ひとつ聞いていいですか」
開けっ放しだった窓のブラインドを閉じるボグダンに琥珀は投げかけた。
「ボグダンさんは俺と同じサイコメトラーなんですよね」
「うん、まぁね」
「じゃあどうして自分でこれを視ないんですか」
部屋の真ん中に突っ立ったまま琥珀はボグダンを見つめた。
「わざわざ日本にまできて、どういう事なんですか」
「どういう事、ね。そうだね、どういう事なんだろうかな」
ボグダンは曖昧な表情を浮かべて、同じく曖昧な返事をした。その仕草の意味もわからず、琥珀は黙ってボグダンの答えを待つ。
「僕には視えなかったんだよ」
ソファに腰を下ろしたボグダンは、僅かに顔を俯かせた。長い睫毛が瞳を覆う。微妙だったが表情に苦渋の色が見えた気がした。
「元々君のようにはっきりと何でも視えるわけではないんだ。それでも子供の頃から視えるというその事で、色々制限してきたせいもあって。年々その力が弱くなってきている。不意に入り込んでくる念もあるけれど、子供の頃に比べれば随分少なくなってきた」
それをボグダンは良かれと安心していたのだという。ようやく普通の生活に近づいてきたのだと。
「だけどね、ある日これを見つけたんだ」
サイドテーブルの上のバレッタに手を伸ばして、ボグダンはそれを掴むと囁くように言った。
「その時、ものすごい何かを感じたのだけど。それが何かが全くわからなかった。今も、何かを感じているけど何なのか全くわからない。すごく大切なことのような気がしてならないんだ」
「今も、感じているんですか」
「すごく大事な事を伝えようとしているような、ね」
それを手のひらに乗せて、ボグダンは片方の手を包み込むように乗せて目を閉じた。
「でも、僕には全く視えない」
「そうなんですか」
「だから、君にお願いしたいんだ」
「俺のことは、道旗さんから?」
「君のことはヤースーから聞いていた。ずっと前からね、血は繋がっていないのに、弟みたいな不思議な存在だって」
「弟……」
むず痒さを覚えて琥珀はボグダンから目を離した。琥珀自身も道旗のことを兄のように思っていただけに、それが嬉しくもあった。
「ヤースーから僕の事は聞いてないよね」
ソファから立ち上がったボグダンは慣れた手つきで、いつも道旗が机に向かっている時に腰をかけている椅子を引き寄せた。琥珀にそれに座るように促す。
「彼はどちらかというと寡黙なタイプだからね」
無意識に琥珀は頷いていた。
だが寡黙というよりは、よく人に話しかけている場面の方を琥珀はよほど知っている。だけど、道旗自身の話を、彼の口から聞いた事はほとんどない。
「彼自身のことは聞かないと答えてくれない人だからね」
うん、と琥珀は唸るように頷いた。同時に、聞きもしなかったと思い起こす。
「僕とヤースーは大学のルームメイトなんだ」
「ルームメイト……」
間の抜けた返答をしながら琥珀はぼんやり聞いていた。
「彼は大学の近くに家があったんだけど、大学生は大半が寮生活だったしね、何より彼のファミリーに居づらさもあっただろし」
「ハァ、そうなんですか」
家族に居づらさもあった。
ボグダンが言ったセリフの断片が琥珀の脳裏を浮遊して居た。
「その辺りも全然知らなかった?」
琥珀の反応を見たボグダンが、やや口調を整えて問うと、琥珀はようやく自分が間抜けな反応をしていたのだと気がついた。
「俺から聞くことも、なかったので」
家庭の事情や学歴など、琥珀にとっては全て上手くいかなかった事柄だった。あえて自分からその事を話題にすることも避けていたし、道旗のことだから彼も彼なりにスマートに回避していたのだろう。
そんな事を思うと、今更ながら道旗の人柄に琥珀は胸を打たれた。彼のことはやはり、人として好きなのだと実感する。
「あの、ファミリーに居づらいってどういうことなんですか」
「ああ、それはね。ヤースーのママはとても魅力的な人で。結婚を八回ほどしているんだ。ヤースーは最初の結婚した人との間の子供で、僕が彼と大学で出会った時はちょうど五回目の結婚をしてリバーサイドの方に住んで居たんだ。ヤースーを溺愛していたママだったから、大学を家の近くにさせたくてね。でも彼は通学生活より寮生活を選んだのは、ママと新しいパパの為を思ってのことだったよ」
おかげで自分は道旗とかけがえのない大学生活を送れたのだと、ボグダンは嬉しそうに話をした。
琥珀に楽しかったと振り返る学生生活おろか、楽しかった過去などない。ふと、自分の心に陰りが見えた気がしたが、ボグダンから得られた道旗情報は限りなく不可解なキーワードが幾つかあった。それが心の翳りより興味に勝るのを琥珀自身感じて居た。
(何より、莉子ちゃんより道旗を知ることができる)
何故かいつも莉子を基準にしてしまう自分がいる事を薄っすらと自覚しながら、ひとまず琥珀はボグダンに身を乗り出した。
「あの、リバーサイドってどこのですか」
まず当たり障りのなさそうなところから琥珀は問いかけた。
「チャールズ川だよ」
「ちゃ、ちゃあるずがわ……」
脳内に目一杯日本地図を広げて片っ端から思い出してみる。茶有頭川。茗在不川。ありとあらゆる当て字を想像する。
(沖縄か北海道かな、でもそうじゃなさそうだ)
そこまで思案して、道旗がアメリカ国籍だったのを思い出した。
「そっか、そうだった」
我ながら間抜けだったと、内心大きくため息をついた。
「じゃあ、じゃあですよ」
「うん」
「ママ、いや、お母さんは八回結婚しているとか、家がハーバード大学の近くだかでとか、いや待って、道旗さんはお母さんの最初の結婚した人の子供で? 道旗さんは? あれ?」
混乱しだした琥珀の肩に静かに手を置いてボグダンは破顔した。
「面白いね、君ってそういう顔もできるんだね」
「え? そういう顔って?」
「いやいや失礼。まぁ細かいことは本人から後で聞いてあげてよ。つまり僕は、ヤースーのママが三番目に結婚した相手の妹の息子だから、当時のヤースーの従兄弟って関係だったんだ。今は他人だけど、僕らはその頃から随分仲が良かった。大学で再開した時は、もう嬉しかったなぁ」
そういうわけだから、と一方的にボグダンはにこやかな笑顔で琥珀にバレッタを差し出した。有無を言わせぬ笑顔だ。
「このバレッタは僕の先祖のものなのだけど、実はヤースーの血の繋がっていないお祖母さんが、僕のお祖母さんと姉妹で。ヤースーの姉のお祖母さんはもうだいぶ前に亡くなって、妹の方の僕のお祖母さんがこれを受け取っていたみたいなのだけど」
そこまで言って、ボグダンは静かに目を伏せた。
「古いものが好きな僕にと、お祖母さんが渡してくれたものだった」
それを最初に触れた瞬間、何かを感じたとボグダンは歯がゆそうに言った。
「それが何なのかわからなくて。受け取ったものの、触れる度にバレッタが何かを訴えているような気がしてきてね」
垣間見えたボグダンの見たことのない表情に琥珀の心が揺れた。
「これの記憶が視えたら、どうするんですか」
思ってもいない質問が自分の口から出て、琥珀は思わず語尾を縮めた。物の記憶を求める人の大半は、その記憶や念を知ってどうしたいというわけではない。どこかで買ったり手に入れたりした骨董品が、紛い物かそれとも価値のあるものなのかの判別を求めるだけという事がほとんどだ。愚問だったなと、唇を噛んだ。
「持つべき人に渡すなり、あるべきところに戻すなり、だね」
爽やかにボグダンは応えた。
「ボグダンさんは、持っていたくないですか。お祖母さんから受け取ったものなんですよね」
「ばあちゃんまだ生きているし、形見ならまた別のものを貰うよ」
顔を上げて微笑んだボグダンが、今まで聞いたことのない彼らしくない砕けた口調で琥珀に笑いかけた。
「そうですか」
短く返事をして琥珀は手の上に置いた鈍色のバレッタを見つめた。




