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ボグダン-1

〔 ボグダン 〕



 晩御飯を終える頃には、冬の短い日照時間が終わり、辺りはすっかり真夜中のように暗くなった。

 昨日の夜は、薄っすらと雪が積もったせいもあって、外は幾らか明るかった気がする。それに比べれば、今晩の月もない暗黒の空が寒々とした印象を醸し出していた。

 葉がすでに落ちきった境内を囲む樹木の向こうから、街灯の明かりが一際目立つ。その色合いも余計に寒さを感じさせるようで、その様子を一瞥したまま貴和子はカーテンを引いた。

 御山はいつものように早々に寝室に向かい、居間の長方形のこたつを囲んでいるのは、琥珀と道旗と貴和子と猫のみさえさんのおなじみの顔揃いと、ボグダンと莉子である。

 こたつの上には温かい飲み物が淹れられたカップが、ほかほかと柔らかい湯気を上げていた。

 莉子は貴和子の用意していた家着に身を包み、湯気の昇るカップに両手を当てている。

 莉子が御山家に泊まるのは夏場の祭りの夜だけだったが、莉子を可愛がっている貴和子は女子が好みそうなモコモコのフリースパジャマを用意していたとは、琥珀も面食らった。思えば、冬の時期に御山家に莉子が泊まることはなかったのだ。

 暖かそうな衣類にくるまっている莉子に不思議な魅力すら感じる自分に戸惑い、思わず琥珀は咳き込んでいた。

「あら? 風邪?」

 大仰に貴和子が琥珀を見る。

「いいえ」

 慌てて琥珀は首を振った。

「風邪を引いたらいけないわ、ただでさえこの家は寒いんだから。お風呂から上がったら寒くしないようにしてね。ボグちゃんはしっかり湯船に入って体を温めてから出てくること」

 人差し指を立てて貴和子はボグダンを見ると、彼は少年のような表情で立ち上がった。

「百まで数えるんですよね」

 そうよと貴和子が微笑む。

「では、百まで数えてきます。ヤース、バスタオルを貸してくれる?」

「わかった、持ってこよう」

 二人が出て行くと同時に、廊下から冷たい空気が流れ込んできた。

「今晩も寒くなりそうね」

 貴和子がゆっくりと飲み物を啜る。つられて琥珀と莉子もカップに口をつけた。

 静かな時間だ。冬の夜は特に静かに感じる。

「あの、私ボグダンさんって琥珀さんと同じ超能力者なんじゃないかと思っているんです」

 莉子は琥珀の横に座っている喜和子にそう投げかけた。

「あらどうしてそう思うの?」

 少し驚いた顔で喜和子は応える。

「だって、だって……」

 俯いて莉子は拳をぎゅっと膝の上で結んだ。

「だって、ボグダンさん、私が道旗さんの事、好きだって知ってたの」

「……」

「はっきりボグダンさんに指摘されたわけじゃないけど、ボグダンさんは私の心の中が見えていたんじゃないですか?」

 莉子は意識を失った僅かな時を、微睡みの中で薄っすらと覚えたいた。それは目を冷ます直前だったのかもしれないし、気を失った直後だったのかもしれないが、琥珀や喜和子の声がしっかり耳には入ってきていた。

 まるで自分の心の内を見透かしているかのように、ボグダンには筒抜けているような感じがしたのだ。

「そんな事サイコメトラーじゃなくても誰だってわかるよ」

 思わず琥珀は、口を突いて出た言葉を弁解しようとはしなかった。

「どうして?」

 意を突かれた表情で莉子は琥珀に目線を戻した。

「分かりやすいからだよ」

 単純に琥珀は返すと、莉子は理解できないと目をきょとんとさせた。

「うふふ、分かりやすい」

 喜和子も肩をすくめて顔をほころばした。

「え? どういう事なんですか?」

「つまり、莉子ちゃんは思っていることが全部顔に出るっていうことよ」

 面白そうに貴和子は微笑む。

「顔どころか、全身に出ているよね」

 しらっと琥珀も付け加えた。

「どういうこと?」

「だから、全身から『私は道旗さんが好き』というのが出ているってこと」

「!」

 琥珀の投げ打った言葉を莉子は目を見開いたまま受け止めた。

「うそ!」

「あら、そうじゃないの?」

 真っ赤になった莉子が、大げさに仰け反りながら首を振って慌てふためいている。

「でもそれって、貴和子さんと琥珀さんだからわかるんですよね?」

 琥珀は貴和子と顔を見合わせた。(どうする?)(どうしましょう)というテレパシーのような目線のやり取りをし、やがて二人は同時に首を横に振った。

「誰が見てもわかるわよ」

「まさか道旗さんも? 道旗さんにも分かられているんですか」

 語尾が弱々しくなって行く。貴和子が用意した家着がパステルピンクだったせいか、余計に白い肌が紅色しているのが目立つ。

「それは……」

 どう答えたらいいものか、琥珀がたどたどしく貴和子に目線を送る。

「それは靖彦くんに訊いてみたらどうかしら?」

 あっさりと答えられた莉子は息を吸うのも忘れているほど、固まったまま口をパクパクさせていた。

 こたつから出てきたみさえさんが、莉子を見上げると一声にゃんと鳴いた。

「あら、みさえさんも同じ意見ですって」

 


 ※


 寒々とした夜が明けた。

 その日の朝食を終えた琥珀は、階下に降りてトーストを焼いていた。朝方生活である御山夫妻はもちろんのこと、道旗も莉子も琥珀の起床した時間には、既に朝食を食べ終えてお茶の時間を迎えていた。

 ボグダンはどうやら朝が苦手な質らしく、姿は見えない。「時差ボケが抜けないのね」と喜和子は気の毒そうに言う。

「靖彦くんみたいに、ずっと日本に居てくれたらいいのに」

 貴和子はそういいながら目玉焼きを皿に移し、琥珀の座っているテーブルに静かに置いた。

「そうだな、そうしたら賑やかでいい」

 食後のお茶を啜りながら御山も同感だと頷いた。

 そんなやり取りを、居間を隔てたキッチンのテーブルの上で聞いていた琥珀は、内心激しく拒絶する。自分も御山家に居候になっておきながらだが、居候がもう一人増えるというのは些か気が引けるのだ。

 道旗は別として、収入のよさそうなボグダンが居候するとなれば、御山夫妻にも好都合だといえば確かに頷ける。と、そこまで思考を巡らせると、一気に気持ちが沈んでいくのがわかった。ボグダンが仮にも日本に定住するとなれば、御山家に居候すると決まったわけでもないのに。

 

 教習所に通い始めてからというもの、琥珀はほとんど無収入に近い状態だった。僅かなバイト代は教習所の資金に充てている。同じく居候という身分の道旗が、何をどうやってどのくらい御山家に金銭を納めているのか否かもわからない。御山と道旗の関係性は伯父と甥という事はなんとなく理解している。

 琥珀にはただ、それだけしかわからない。わからないものを無理にわかろうとしなくてもいい、と思って今までやってきた。

 ふと、琥珀は胸の中に冷たい風が吹くような感覚を覚えた。

 それは知ろうとしなかったツケなのか--。

「みゃ」

 足に温かい温もりを感じてテーブルの下に目をやると、シャム猫のみさえさんが身を摺り寄せている。長いしっぽがするりと視界から抜けていった。

「にゃあ」

 目を細めてみさえさんはもう一声鳴くと、そのまま軽い足取りで皆が集まっている居間のこたつに潜り込んだ。

(そうだな、へこんでいたってしょうがない。早く免許を取って少しでも役にたつようにならないと)

 当面の目標が明確になる心持ちがして、琥珀は勢いよくパンに齧り付いた。

 莉子などより、みさえさんの方がよっぽどソウルメイトらしい励みをくれる。

(まずは。ボグダンが持ってきたあのバレッタの件を片付けないと)

 冷たい牛乳を一飲みすると、意識がしゃきっとしてきた。


 琥珀が朝食を終えた頃合いを見計らってか、莉子が帰り支度を始めた。

「後で親と挨拶にきます。ご迷惑おかけしました」

 恐縮した態度で莉子は御山夫妻に頭を下げる。

「そんなこと気にしなくていいわよ、だけどちゃんと病院とか行って一度診てもらったほうがいいわ」

 喜和子が心配そうに莉子を見つめる。

「はい、ありがとうございます。ボグダンさんもありがとうございます」

「うんいいよ、大丈夫。また君とも会える気がするしね。その時はデートでもしてもらおうかな」

「デート?」

「みんなでね」

「はい」

 頰を赤らめた莉子は今一度、隣でコートを羽織った道旗を上目遣いで見上げた。道旗は笑顔で受け止め、車のキーをポケットに納める。

「じゃあ靖彦、頼んだよ」

 御山の言葉に莉子も道旗に向かってお辞儀をする。

「お願いします、道旗さん」

「お安い御用です」

「気をつけてね、お家の方によろしく」

 そんなありきたりなやり取りの後、開けられた玄関の引き戸が閉められると、外気の名残が琥珀の肌をくすぐった。

「外は相変わらず寒そうだね」

 ボグダンは肩をすくめて琥珀に視線を落とした。

「冬ですからね」

 淡々に返事をしたつもりだったが、ボグダンは思わず破顔して琥珀の肩を抱く。

「君はほんと、面白いね」

「なんですか、突然に」

「ヤースーが放っとけない気持ちがよくわかる」

 どういう意味だと聞くより早く、ボグダンがそのまま背中を押して階段を登った。

「随分急かすんですね、あのバレッタのこと」

 諦め気味に琥珀は背後にいるボグダンに吐き捨てた。

「急かすわけじゃないけど、こう見えてすごく楽しみにして来たんだよ」

 オーストラリアから。

 海パン姿でサングラスをした色白の男が真夏のビーチで風を受けている。見たこともないボグダンの、そういう姿が勝手に琥珀の脳裏に浮かんだ。

 正直、いけ好かない。だが、依頼を断ることもできなかった。道旗が承諾した依頼なのだ。何はともあれ遂行せねばならない。

 あまり深入りせずに、淡々と記憶を読み伝えればいい。

 そう琥珀は思っていたのだが、バレッタの記憶はそれをさせてはくれなかった。


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