ボグダンー2
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浅黒い水面にさざ波が立った。
その液体は深い銀の杯に注がれた葡萄の果汁だ。暗い地下牢に焼べられた燃えかすのような蝋燭の灯りが揺れるたび、杯の水面は黒く淀んで見える。乳母が用意してくれた夕餉だった。杯の横には石のようなパンが見える。
石畳に響くような足音に耳をすますと、それはすぐそこまでたどり着き、テーブルの上に皿を置いた。葡萄の果汁の入った杯とパン、そしてスープが並べられたテーブルを挟んで乳母は椅子に腰をかけた。彼女の持ってきたランプの明かりが煌々と明るい。
石のように見えたパンに色が宿った。スープは野菜がたっぷり入っているのがわかった。銀の杯に入れられた液体は葡萄の芳香を嗅ぐわせる。
神に祈りを捧げる乳母の後から、少女も同じ言葉を繰り返した。
なぜこんなに精密に見えるんだ?
琥珀の意識は疑問した。
答えは当然出てこない。記憶は止まることを知らない映像のように淡々と流れている。琥珀は戸惑いながらそれの中に居た。
「母さん」
少年の声が聞こえる。
「母さんそれはエリスのだよ」
朝の日が質素な室内に滑り込んでいた。その光がハンカチーフの上にある銀色のバレッタに屈折して細やかな光を室内に拡散させていた。
「母さん」
琥珀はその光景に溶け込んでいた。
「それどうするの」
何故少年はそれほど悲痛な声で訊いているのだろう。
「ねぇ母さん!」
母親らしき女性は、慈しむような仕草でハンカチーフのバレッタを包み込んだ。
「お屋敷の地下に乳飲み子がいたのを知っているね」
静かな口調で母親は少年に応えた。
「かわいそうなお子だよ、あの子は」
少年は無言のままハンカチーフの上から愛おしそうに触れる母親の指を見ていた。
「お前が生まれて間もなくね、あの子もお屋敷に生まれたのさ。でもね、あのお子は総てを奪われて地下に隠された。母さんはねお前を生んで間もなくだったからお乳をわけていたのさ」
出産をしても母乳の出が悪い女性は少なくない。この時代ならよくある話だった。母親はとある屋敷で仕事をしていた。出産のために仕事を辞めた彼女の元に届いた知らせはこうだった。
出産を無事終わらせたなら、乳母として再雇用したい。
伯爵のお子の乳母など、到底あり得ない身分だったのだが、彼女は地下牢に案内された理由を理解する。
白いお子だった。産毛も肌も全て。
やがて開いたつぶらな目は、時折ビロードのような深い紅色を灯す。
「お子様のお名前は」
彼女--乳母は直々に伯爵に尋ねた。
「名はない」
伯爵の背後にある風景としては、似つかわしくない石の地下牢。灯りを携えた下僕が一人。泣きもしない赤子がひっしりと乳母の両腕に抱き込まれている。
「ではどのようにお呼びすれば」
趙著しながら乳母は低頭した。
「好きにするがよい」
「は、はい」
「それはもうこの屋敷のものではない。お前が欲しいならくれてやるが、それをここから一歩たりとも出すことは--」
伯爵の影が揺れた。マントが翻り階段を昇る足音が遠のく。
「お前の死と引き換えにでもなろうな」
悪魔のような響きだったと、今でもはっきり覚えている。
「サーシャ、お前と同い年だよ、その子は」
誰にも言ってはいけないよ、と母親は諭すように身を屈めて少年と目線を合わせた。
「とてもいい子なんだよ、きっとサーシャも気に入るはずさ」
「見たことない子を気に入る事なんかできないよ」
「誰にも言わない約束をしてくれるかい」
サーシャは三度首を縦に振る。
「母さんとの約束は破ったことない」
真っすぐな瞳でサーシャは母親をみる。母親はそんな息子を心底信頼していた。
「お前はかくれんぼが得意だね」
こくりとサーシャは頷いた。
「お屋敷の大きな古い木を知っているね、あそこの塀にはね……」
母親の言われた通りにサーシャは今日も屋敷の敷地内を歩いた。
これが琥珀が最初に見た風景と重なる。
大きな大木の脇に古い小さな扉があって、サーシャという少年は広大な屋敷の中を淡々と歩いていく。随分通い慣れた足取りで。
行く先は屋敷の奥まった煉瓦造りの建物。北口に面してどこか陰気な場所だった。
レンガ剥き出しの壁沿いに伝い、サーシャは足を止めた。
ほとんど地面すれすれの場所にある細長い長方形の穴がある。地下牢の窓だ。細身の女子供ならなんとか抜け出せる大きさではあるが、実際地下牢の中の窓の位置は天井に近い高い場所にあった。窓には錆色の格子戸があるがそれは木製で、外側から蹴りでも入れれば簡単に破壊できそうである。
いつか、いつかこれを蹴破って、中の彼女を救い出せるだろうか。
サーシャはその事をいつしか考えるようになっていた。
琥珀はゆっくり告げると、目を開いた。
顎に手を当てたままボグダンは何度も頷いて、それから大きく息を吸った。
「このバレッタはエリスという人の物なんだね。それをサーシャという少年の母親が持ち出した。そこまではわかったよ。彼が足繁く通う地下牢には、サーシャの母親が乳母をやっている対象の子がいるということか。つまりそれは、最初見えた白い赤ん坊のことなのかもしれないね」
使い込んだメモ帳にスラスラと外国語を綴っていくボグダンの目は、今まで見た彼のどの目より輝いていた。
(この人は本当にこのバレッタの事を知りたいんだなぁ)
一息ついて琥珀は半ば感心した。




