地下牢の子-3
思い出したくない事を--。
琥珀はため息をついて地面に腰を下ろす。拾い上げたバックを抱えるように座り、深くまた息を吐いた。
家出をした自分の決意を共にした自転車だ。それにはネガティブな感情しか記憶していないだろう。自分はそういう他人の自転車に触れることなどできやしない。
自分が宿した念は、きっと黒く深く水気の多い沼のように染み渡っているだろうからだ。
そんな恐れも何も感じることなく、他人のものを最も容易く触れて持って行くことができる。
普通の人--。それが羨ましい。
羨ましいだけで、それ以上は何もない。憎くもない、憧れてもいない。
両膝を抱きかかえて、琥珀は地面に目線を落とした。視野に映るのは燻んだアスファルト。
自分の目の前はまさにこんな色だ。至る所ボコボコと歪に窪み、黒いヒビが深く入り、脆そうで硬い。そして固そうでとても脆い。自分の人生そのもののようだ。
黒いヒビに沿って目線を這わす。
ヒビはアスファルトの繋ぎ目から入っていた。繋ぎ目には鮮やかな緑の雑草が小さく葉を手向けている。
そこに靴先が見えた。
「琥珀くんじゃないかい?」
名前を呼ばれた気がして琥珀は顔を上げた。見たことのある顔があった。
「ああ、やっぱり琥珀くんだね」
彼は満面の笑みを浮かべると、琥珀の前に少し身を屈めて顔を覗き込んだ。
「どうしたんだい、こんな所で」
妹、瑠璃の家庭教師だった彼は、道旗靖彦だ。琥珀は彼と家でたまに顔を合わせた程度だったが、妹の瑠璃は彼によく懐いていた。口を開けば彼のことばかり口にしていた。「靖彦さんはね」「靖彦さんがね」
「--道旗さん」
琥珀は彼の名を呼んだ。あえて妹が彼を呼ぶ下の名前ではなく苗字で。
「うん」
眼鏡の奥の瞳が綺麗だった。少しだけ色の明るい茶色の瞳。
琥珀は何故かその目に安らぎを覚えた。肩の力が少し抜けた気がするのだ。
「そんな大きなバックを持って、こんな時間に家出かい?」
おそらく道旗は冗談だったに違いない。だが、目を見開いた琥珀の表情を見るなり、道旗は静かに手を差し伸べた。
「それだったらまずは腹ごしらえしないとね」
さらに琥珀の目の前に手を差し出す。
「ほら立って」
急かされて思わず琥珀は目の前の手を握った。
身を切るような思念は入ってこなかった。
道旗は「無」だった。
がらんどうに何もない空間がそこにあるかのように。ただ、生きている者が持つ温もりだけがしっかりある。
言葉を失って琥珀はその場に立ち尽くした。
にっこり微笑む目の前の男に、心が傾いた。
道旗の手をしっかり握ったのはそれが最初だった。時に道旗の手を握りたくなる時が今もある。彼の持つ「無」は、他人の念でごった返した琥珀にとって、羨望にも似た安らぎの空間だった。
ソウルメイトというものが本当にあるのなら、それは莉子ではなく道旗という方が琥珀の中では納得するのだ。
それくらい琥珀にとって、その手は救いになった。
(無といえば、この人もそうだ)
今、琥珀の目の前にいるボグダンという男も「無」だ。言葉では言い表せない底なしの「無」がボグダンにはある。道旗より「無」に近い「無」なのかもしれない。
清らかな水を湛えた深い湖の底が見えなければ見えないほど、恐怖と畏怖が見る者に蔓延る。
「少し休んだほうがいいね」
ボグダンは琥珀の掌からバレッタを受け取ると、琥珀の肩を二度叩いた。
「今の報告はヤースーにこちらから伝えておいてもいい?」
「はい、すいませんお願いします」
ドアが閉じられたのを確認してから、琥珀は床にへたりと座り込んだ。
何かが自分の中に蟠ったのを感じた。バレッタの持つ記憶が妙に鮮明だったのと、関係があるのかもしれない。
ただ、今はまだそれが何なのか琥珀にはわからなかった。
自分の中にある 他人との違い が地下牢に居た少女とシンクロしたのかもしれない。
そう気がついたのは、階下の賑やかな物音が聞こえてきた時だった。不意に寂しさに似た虚無感を感じた。
他人と距離感を置いてしまう自分がいた。そうすることで安心すると共に、諦めのような満足感に落ち着くのだ。
自分は孤独が似合っている。
格好つけると、そういうフレーズで身を飾っていた。
それなのにどうだろう。階下の賑やかさを耳にした琥珀は、その賑やかな物音に心動かされた。
貴和子と莉子と、ボグダンの加わった生活音は、普段の御山家の貴和子と御山の賑やかさでは比べ物にならない生活音があった。
それがなんとも、心地よいものと背中合わせで寂しさをも感じたのだ。
バレッタに籠っていた記憶の、地下牢の少女が持つ記憶にその感情が一番近かった。
時折聞こえてくる夜会の音楽や、人々の笑い声に耳を澄ませる、その仕草。
その賑やかさに僅かな羨望を乗せて、それでも彼女は地下牢にある独りの空間を慈しんでいた。
賑やかな未知の世界と、静かな独りの世界の違いこそは、彼女もはっきりと身に染みるように実感している。だが、孤独は彼女の意識には感じなかった。
待っていれば、来てくれる人がいる。訪れてくれる人がいる。
地下牢の古びた重い木製の扉が軋んだ音がした。控えめな足音が聞こえる。
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はっと琥珀は目を開けた。
薄っすらと夢を見ていたのだろうか。
浅い眠りのまま考え事をしていたような、微睡んだ意識から目覚めたようだった。
(そうか)
天井を見つめたまま琥珀は浅く息を吐いてみる。
(彼女も、自分の人生と境遇を受け入れていたんだろうか)
手のひらを眺めた。
もうないはずのバレッタの残像が陽炎のように見える。鈍色の古めかしい髪飾り--。




