地下牢の子-2
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小学校の修学旅行用に買ったスポーツバックには、あるだけの下着とジーンズとTシャツ数枚。押し込めるように数冊の教科書、靴下が何足か入っていた気がする。
それ以外は、さほど何も持たずに家を出たのを覚えている。ただ、読みかけだった週刊マガジンを1冊だけ小脇に抱えていた。それを無造作に自転車のカゴに投げ入れると、琥珀はペダルを漕いだ。
毎日通う中学校の前を通り過ぎ、大通りに出ると、未だ通ったことのない道の先を見つめる。
駅とは逆の方向だ。
そうでもしないと、駅方向にある塾帰りのクラスメイトに遭遇しかねない。
親友と呼べる友はいない--いらない。
人の心の底が見えた時、自分はあまりにも心細かった。
誰もいないのなら、誰もいなくていい。
友人も、家族も。
財布には一万円札が一枚入っていた。
最初の買い物は何にしようか。思いを巡らせていると、腹が急に空いていることに気がついた。
コンビニの後ろに自転車を停め、惣菜パンとスポーツドリンクを買って店を出た。
そこに停めたはずの自転車がなかった。
思い返せば鍵をかけていなかった事を思い出す。
スポーツバックはコンビニのエアコン室外機の下に投げ込まれるように転がっていた。
--自転車が盗まれた。
琥珀は二度、ため息をついた。
そう容易く他人の物を触って、あわよくば自分の物にできる。それが普通の人間だ。
琥珀は他人の物に不用意に触れることができない。
全てがそうだとは限らないが、まるでまやかしにでも遭ったようにソレは突然、琥珀の中に流れ込む。
その物が吸収した人々の思い、願い、心の内。
そういう流れ込んで来た感情の、九割がおおよそ邪念で満ちていた。
触れたものから時たま見えるソレは、いつも禍々しいほどに青々と黒々とぬめりとしている。
いつだったか--。
テストの答案用紙が配られた。ひとりひとり名前を呼ばれ、教壇の前に立って教師からそれを受け取っていた。
「磐田琥珀くん」
みんなに倣って琥珀も教団の前に向かい、教師と対面する。
当時の担当は優しい面差しの気さくな女教師だった。いつも一人でいる琥珀を何かと気遣い、優しく声をかけてくれている。小学校では、琥珀が唯一心を開きかけていた人物だ。
「琥珀くんはとても良く学習してますね。あともう少ししっかり問題を読んでから回答すると百点も取れますよ。頑張りました」
九十八点という朱色の文字が見えた。
琥珀は上気しながら教師の顔を見上げる。
「よくできました」
天女とも思える笑みを湛えた教師の顔を仰ぎ見て、琥珀は心が躍った。
「……ありがとうございます」
たどたどしく言って、答案用紙を受け取る。クラスメイトがパチパチと拍手を送った。
琥珀と入れ替わりで、次に名前を呼ばれたクラスメイトが席を立つ。
「君は勉強中寝てばかりいたんじゃないの?」
トゲのない口調で彼女はクラスメイトのおでこを柔らかく指で弾いた。どっと笑いが出る。
「もっと頑張りましょうね」
「ハーーイ」
穏やかで和やかな四時間目。
琥珀の胸の内は嬉しさに溢れていた。
テストの答案用紙の右上に刻まれた九十八点の文字。なだらかな水性ペンで書いただろう98の数字は、教師の人柄のように滑らかで美しかった。
琥珀はその数字に指を這わせ、なぞる。
次は百点を目指したい--。
そう意した時だった。
薄気味の悪い子
淡々とした声が耳に届いた。
琥珀は周りを見る。
クラスはつい先ほどの風景と相違なく穏やかな四時間目だ。
琥珀と同じように高得点を取ったクラスメイトが教師に褒められ、拍手が鳴っていた。
勉強だけは優秀だから 楽でいいのだけど。
いつ見ても 暗くて イヤな子。
なんだか 薄気味悪いわ。
勉強できない子の方が 可愛げがあって、まだマシよ。
その声はまさしく目の前で美しく朗らかに笑っている教師のものだった。
そして
その声は琥珀の内の内から滲み出てくる。
教師の声で滲み出てくる。
ハッと琥珀は答案用紙から手を離した。
すっと声は遠のく。
クラスの騒めきが耳に戻ってきた。恐る恐るもう一度答案用紙に手を添えて見る。
薄気味 悪いわ。
弾かれるように手を離した。
心臓が痛くなった。鼓動が高く早い。込み上がる不安と怒涛の絶望。
(先生--)
涙が一粒落ちる。九十八点の文字がジワリと滲んだ。
嘘っぱちの上辺だけのように、九十八点の誉れた文字は滲んで姿を別にした。
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