第4話|揺れる想い
朝の回廊は、まだ人の気配が少なかった。
高窓から射し込む光が白い石床に淡く広がり、冬の冷えた空気が静かに肺を満たす。
リリアーナはゆっくりと歩いていた。
昨夜の言葉が、胸の奥で何度も繰り返される。
――父でも、王でも。
――守ると決めたものは、守り抜く。
あのときの瞳は、揺るぎなかった。
迷いも、逡巡も、微塵もなかった。
嬉しかった。
自分がそこまで想われているという事実は、胸が熱くなるほどに。
けれど同時に、言葉にできない感情が残っている。
自分は、本当にその覚悟に見合うのか。
彼は、家を背負っている。
公爵家という重みを、当然のように引き受けている。
その彼が、躊躇なく自分を選ぶ。
その強さが、眩しかった。
「……重いわね」
思わず零れた独り言は、白い息とともに消えた。
「何が重いのかしら?」
柔らかな声に振り返る。
先代公爵夫人が、朝の庭へ続く扉の前に立っていた。
庭園へと足を向ける。
冬の庭は色を落とし、低木の枝先には霜が残っている。
静寂の中、水盤の水面だけがわずかに揺れていた。
「昨夜の様子を見れば、察しはつきます」
夫人は穏やかに言う。
「強いでしょう、あの子は」
「はい」
即答だった。
「強くて、迷いがなくて……」
そこまで言って、言葉が続かない。
夫人は、責めるでもなく、ただ静かに待っている。
「私のために、あそこまで言い切ってくださるのが、嬉しいのです。
ですが……」
胸に手を当てる。
「その強さに、私が追いつけていない気がして」
夫人の目がわずかに細められる。
「置いていかれる気がする?」
核心だった。
リリアーナは小さく息を吐く。
「はい」
否定はしない。
夫人は微笑んだ。
「追いつく必要はありませんよ」
「え……?」
「並べばいいのです」
その言葉は、冬の空気とは対照的に温かい。
「息子は加速するでしょう。あの子は決めたら止まりません」
懐かしむような声音。
「ですが、速く走る者ほど、自分の速さを自覚していないものです」
リリアーナは、視線を上げる。
「では、私はどうすれば」
「手を離さなければいいのです」
簡潔で、明確な答え。
「隣に立つと決めたのでしょう?」
その問いに、迷いはなかった。
「はい」
「ならば、怯えず握っていなさい」
そのとき、石畳を踏む確かな足音が近づく。
振り向けば、ディートリヒがこちらへ歩いてくるところだった。
迷いのない歩幅。
視線は真っ直ぐ、リリアーナへ向けられている。
「母上、彼女をお借りします」
丁寧だが、有無を言わせぬ響き。
夫人はくすりと笑う。
「ええ。大事になさい」
廊下に入った途端、彼の手が彼女の腰を引き寄せた。
温かい。
力強い。
「母に何を言われた」
低い声。
「置いていかれる気がするか、と」
わずかに眉が寄る。
「馬鹿な」
即座に否定。
「私は置いていくつもりなどない」
視線が絡む。
「王家への申請書は今朝整えた。父上にも正式な手順を提示する。
婚姻の日取りも、今週中に決める」
淡々と告げるが、その内容は加速している。
「……もうそこまで」
「当然だ」
距離が近い。
「お前を曖昧な立場に置く気はない」
強い腕が、さらに引き寄せる。
「私は止まらない。止まる理由がない」
その言葉は、衝動ではない。
確信だ。
リリアーナは、胸の奥で揺れていた不安が、少しだけ形を変えるのを感じた。
追いつく必要はない。
離れなければいい。
「……なら、私も手を離しません」
小さな宣言。
その言葉に、ディートリヒの目が柔らかく細められる。
「それでいい」
指が絡む。
温もりが、確かな現実として伝わる。
彼は加速している。
だが――
その隣を歩くと決めたのは、自分だ。
冬の庭を後にしながら、リリアーナは静かに息を整えた。
婚姻は、もう遠い未来ではない。
すぐそこまで来ている。




