第3話|ディートリヒ公爵として後ろ盾に
正式な後継宣言から数日。
ベルナール伯爵家の応接室には、静かな緊張が漂っていた。
リリアーナは机に向かい、新たに提出された領地関連の報告書に目を通している。
整えられた書類の山。差し込む冬の光。
文字を追う眼差しは真剣そのものだが、責務を背負ったばかりの初々しさもまだ消えてはいない。
「その案件は、三年前にも同様の問題が起きている」
低く落ち着いた声が、背後から静かに響いた。
振り返れば、そこに立つのはディートリヒ公爵。
公務の装いのまま、隙のない佇まいでこちらを見下ろしている。
「公爵様……」
「後ろ盾とは、名ばかりでは意味がない。実務も把握しておくべきだ」
淡々と告げ、彼は自然な動作でリリアーナの隣に立つ。
近すぎず、遠すぎず。
だが確実に意識せざるを得ない距離。
彼の指が、報告書の一行を示した。
「ここだ。税の再配分を見直せば、無駄な流出は抑えられる」
リリアーナは息を整えながら、その指先を追う。
革とインクの匂いが微かに混ざる。
距離の近さに、鼓動がわずかに速まる。
「……ありがとうございます。参考にいたします」
「参考、ではない。再構築だ」
彼は書類を一枚抜き取り、さらりと余白に数字を書き込む。
「救済措置を厚くする判断は悪くない。だが財源の裏付けが甘い」
机に置いた彼の腕が、自然と彼女を囲う形になる。
逃げ場を塞ぐ意図はない。
だが、その圧は否応なく伝わる。
「情だけでは家は守れない。だが、情を捨てた家も滅びる」
低く落ちる声。
「その均衡を、自分で見つけろ」
リリアーナは視線を上げる。
「……公爵様は、厳しいのですね」
「当然だ」
即答だった。
彼はほんのわずかに距離を詰める。
「君は私の婚約者だ。弱いままでは困る」
胸が強く打つ。
それは守られるという意味ではない。
試され、鍛えられ、そして――
意識させられるということ。
婚約者としても。
「私の隣に立つのなら、同等であれ」
視線が真正面から絡む。
命令ではない。
挑戦だ。
リリアーナはゆっくりと背筋を伸ばした。
「……ならば、期待を裏切らぬよう努めます」
一瞬の静寂。
ディートリヒの口元がわずかに緩む。
「それでいい」
彼は彼女の手元のペンを取り上げ、指先が触れるか触れないかの距離で返す。
ほんの一瞬の接触。
だが、やけに長く感じられた。
「次に会う時までに、この案を練り直せ。私は甘い採点はしない」
踵を返し、扉へ向かう。
そして、振り向かぬまま言葉を落とした。
「――だが、成長は必ず見る」
扉が静かに閉まる。
応接室に戻る静寂。
リリアーナは胸元に手を当て、小さく息を吐いた。
後ろ盾。
それは安心ではない。
支えられることでもない。
鍛えられ、試され、
そして確実に――隣に立つ資格を問われること。
ベルナール家の新体制は、盤石になりつつある。
その中心で、リリアーナは自分の足で立とうとしている。
そしてディートリヒは、公爵として家門を守りながら、
婚約者として彼女を“同等”へと引き上げようとしていた。




