第4話|動揺と崩壊
ヴァネッサは、微笑んでいた。
慈悲など欠片もない、冷えきった微笑。
「奥様は、最期まであなたを信じていらしたわ」
ヴィクトルの喉が、ひくりと鳴る。
「……何が言いたい」
「病だと? 本当にそう思っているの?」
声は柔らかい。
だが、刃のように薄い。
「薬の量を決めたのは、私じゃないもの」
空気が止まる。
「……貴様」
否定しなければならない。
だが心の奥で、点と点が繋がっていく。
あの日の異様な静けさ。
妙に都合の良すぎた診断。
そして――ヴァネッサの落ち着き。
呼吸が乱れる。
「ふ、ざけるな……」
掠れた声。
ヴァネッサは肩を竦めた。
「でも安心なさい。あなたは悪くないわ。
だって――あなたは何も“見なかった”だけ」
机に置いた手が、わずかに震える。
「私は……」
続かない。
肺がうまく動かない。
ヴァネッサの声は、さらに静かになる。
「そもそも、当主はあなたではなかったのよ。
優秀な妻と、その娘――本来なら、あちらが継ぐはずだった」
心臓を真横から撃ち抜かれたような衝撃。
「違う……」
掠れた息。
揺れる視線。
軋む誇り。
「私は……伯爵だ」
だが、その声に力はない。
ヴァネッサは首を傾げる。
「名乗るだけで、なれると思って?」
言葉が出ない。
呼吸だけがやけに大きく耳に響く。
理解してしまった。
自分が掴んでいたものは、
誰かの死の上にあったのだと。
そして――
「……違う」
小さく、弱く。
それは否定か。
懇願か。
それとも、自分自身への嘘か。
もう、誰にも分からない。
屋敷の奥。
使用人すら足を踏み入れない、薄暗い廊下の先に小さな扉がある。
ヴァネッサは迷いなくそこへ向かった。
足音は静か。
背筋は伸びている。
崩れ落ちた男を振り返りもしない。
扉を開ける。
石壁に囲まれた小部屋。
窓はない。
灯りは一本の燭台だけ。
その向こう、闇の中に“影”があった。
顔は見えない。
ただ、人の形をしているというだけ。
ヴァネッサはわずかに顎を上げる。
「伝えて頂戴。計画は予定通り進むと」
沈黙。
やがて、低い声が落ちた。
「……あの方は仰せだ」
感情のない声。
「お前は、もう不要だと」
空気が凍る。
ヴァネッサの指先が、ぴくりと動く。
「……何ですって?」
「役目は終わった」
それだけ。
理由も、説明もない。
「そんなはずはないわ」
即座に返す。
だが声は、わずかに揺れている。
「私は、あの方のために――」
影が一歩、退く。
「これ以上の接触は許されぬ」
淡々と告げる。
「命が惜しければ、関わるな」
次の瞬間、気配が消えた。
灯りの揺らぎだけが残る。
ヴァネッサは立ち尽くしたまま、動かない。
呼吸が浅い。
「……嘘よ」
誰もいない空間に、言葉が落ちる。
壁に反響し、虚しく消えた。
膝が崩れる。
石床に手をつく。
冷たい。
「私を……切り捨てる?」
理解したくない。
だが、理解している。
自分は駒だった。
都合よく使われ、用済みになっただけ。
長い沈黙。
やがて、ゆっくりと顔を上げる。
涙は出ない。
代わりに、瞳の奥に冷たい光が戻る。
「……まだ、ある」
立ち上がる。
足取りは重い。
それでも止まらない。
自室へ戻り、扉を閉める。
机の引き出しを開ける。
布に包まれたそれを取り出す。
リリアーナのネックレス。
震える指で握りしめる。
「これがある限り……」
唇が歪む。
「あの子は、私の手の中」
ヴィクトルは壊れた。
罪悪感に沈み、立ち上がれない。
ならば――利用する。
当主の名は、まだ彼にある。
操ればいい。
丸め込めばいい。
「終わらせないわ」
ネックレスを胸に押し当てる。
彼女はまだ、自分が“選ばれた側”だと信じている。
だが――
それは、すでに空っぽの切り札だった




