第3話|選んだのはあなた
応接間は、ひどく静まり返っていた。
重厚なカーテンは閉ざされ、夕暮れを遮っている。
灯された燭台の炎だけが、揺れる影を壁に落としていた。
時計の針が、ひとつ音を刻む。
その音が、やけに大きく聞こえた。
正面に座るヴァネッサは、指先を揃えたまま視線を落としている。
いつもの柔らかな微笑みはない。
その沈黙に耐えきれなかったのは、セリーナだった。
「どういうことですの!? お母様!」
声が震える。
語尾だけは崩さない。
崩せば、自分が“戻ってしまう”気がして。
十四まで市井で育った少女が、必死に身につけた伯爵令嬢の言葉遣い。
まだどこか硬い。
まだどこか浮いている。
それでも彼女は、それを守ろうとする。
リリアーナよりも、上であるために。
だが、その薄いメッキは、
すでにひび割れ始めていた。
「説明して下さいませ。あの話は……事実なのですか?」
ヴァネッサは答えない。
ただ、ゆっくりと視線を逸らす。
その仕草が、何よりも雄弁だった。
セリーナの呼吸が乱れる。
「お母様……?」
低く、冷え切った声が割り込む。
「……感情で話すな」
ヴィクトルだった。
声音は荒れていない。
怒鳴りもしない。
だが、そこに父の響きはなかった。
セリーナが息を呑む。
一瞬、父へ視線を向ける。
助けを求めるような、戸惑うような。
だが返るのは、感情を切り落とした眼差しだけ。
「これは家の問題だ」
ヴィクトルは椅子から立ち上がった。
「ヨハンを呼べ」
扉の外に控えていた老執事が、静かに姿を現す。
ヨハンは一礼し、状況を察したように目を伏せた。
「お嬢様はお部屋へ」
穏やかだが、逆らえない声。
「……お父様」
セリーナの声が小さくなる。
だがヴィクトルは答えない。
ただ、視線を外した。
その瞬間、セリーナの中で何かが音もなく崩れた。
「どうしてよ……」
ヨハンに導かれ、応接間を出る。
扉が閉まり、静寂が落ちた。
ヴィクトルはヴァネッサを見下ろす。
「書斎へ来い」
短い命令。
ヴァネッサはゆっくりと立ち上がった。
その横顔に、恐怖も動揺もない。
ただ、諦めに似た静けさだけがあった。
書斎の扉が閉まる。
分厚い木が外界を遮断する音が、やけに重く響いた。
まるで――家族の終わりを告げる鐘のように。
ヴィクトルは机の前に立ったまま背を向け、振り向かない。
それだけで、空気が張り詰めた。
「……二十年だ」
感情を抑えた、低い声。
怒鳴らない。
だが、怒りは確かにある。
「私は、お前を信じていた」
ヴァネッサは数歩離れた位置で立ち止まる。
言い訳もしない。
沈黙。
「私を愚弄したのか」
初めて振り返る。
視線は鋭い。
だがまだ理性的。
まだ“伯爵”。
まだ“当主”。
「答えろ」
短い命令。
ヴァネッサはゆっくりと顔を上げる。
その瞳は静かだった。
「愚弄……?」
小さく、繰り返す。
そして、ほんのわずかに口元が緩む。
空気が変わる。
ヴィクトルの眉が、わずかに動いた。
ヴァネッサは一歩、近づく。
「まだ、わからないの?」
声は柔らかい。
だが、温度がない。
「私はただ――」
「あなたが望んだ形に、動いただけよ」
ヴィクトルの目が細くなる。
「何を言っている」
「あなたが“正しさ”を選んだ時」
その言葉に、わずかな棘。
「私は、それを利用しただけ」
部屋の空気が凍る。
「奥様とお嬢様を遠ざけたのは、私じゃない」
ゆっくりと。
逃げ場を塞ぐように。
「あなた自身よ、ヴィクトル」
――刺さる。
ヴィクトルの指先が、わずかに机を叩いた。
それが、この男の最大の動揺。
だが、まだ崩れない。
「……話をすり替えるな」
低く冷たい声音。
だが、ほんの一瞬。
ほんの一瞬だけ――
彼の視線が揺れた。




