パトリシアの愛
難しく考えるのはよそう。
パトリシアは心に決めた。
ひと針、ひと針、丁寧に『I』の文字を刺す。
「また頼まれものですか?」
ふいに侍女がパトリシアの手元を覗き込んで言った。
パトリシアは驚いて刺繍していた面を胸に返して隠した。
「ええ……」
あんまり真剣になっていたので傍にひとがいるのに気付かなかった。
声を掛けてきた侍女はパトリシアが幼いころからずっと仕えてくれている。
病気がちなこどもだったパトリシアの世話を献身的にしてくれた。
お陰でパトリシアのちょっとした変化にもすぐ気付く。
平生ならありがたいが今はちょっと疎ましい。
夫のフランも近頃、妻を疑っている様子だ。
幸いにも周りは夫の妄言だとまともに取り合っていないようだが。
彼に人望がなくて良かった。
夫は不愛想なひとで何を考えているのかよく分からない。
パトリシアを妻にと強く乞うたのは彼だったけれど、パトリシアには彼に愛されている実感がなかった。
もともとフランの婚約者は従姉のイザベラだった。
パトリシアとイザベラは幼少のころから仲が良かったが、パトリシアが結婚してからあまり遊んでくれなくなった。
イザベラが結婚したらまた以前のように交流できると侍女は言うけれど……。
「来週、イザベラをお茶に誘おうと思うわ。迷路園の真ん中でふたりでバラを見ながらおしゃべりするの。来てくれるかしら?」
たぶん、来ない。
侍女も答えにくそうにしている。
でも、それでもいい。
「準備しておいてちょうだい」
わかりましたと言って侍女は部屋を出て行った。
パトリシアは手にした刺繍を見返した。
それから青い糸をいくつか並べて吟味する。
そのうち一つを選んで『I』の文字に添えるように小さな花を刺した。
――いい出来栄え。
刺繍の名手と名高いパトリシアのもとにはたびたび仕事が舞い込む。
ここのところ何を作っても今ひとつだった。
心の迷いが運針を狂わせていたのだろう。
イニシャルを入れたハンカチを刺繍枠から外すと、螺鈿細工の美しい道具箱に丁寧に道具をしまった。
ハサミ、針入れ、指貫、糸巻き。
それぞれに彼女の花である忘れな草の細工が繊細に施され、花弁に小さな宝石が埋め込まれている。
長年使った愛着のある道具たち。
もう使うこともない。
バルコニーに出るとすみれ色の空に一番星が輝いていた。
肩に掛けていた薄物の前を合わせる。
この時期の夕刻はまだ少し肌寒い。
あのひとのために死のう。
パトリシアは心に決めた。




