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ある慈悲深き恋の結末  作者: 凛野冥
柏崎恭平の章 肆
21/31

2、3「約束された破綻」

    2


 シャワーを浴びて居間に戻ると、先にシャワーを済ませていた彩音が布団を敷き、その上に座って待っていた。

「寝ていてくれて良かったのだが」

「彩音はそれじゃあ嫌だもん。髪もまだ乾いていないし」

「申し訳ない」

 それはドライヤーを持っていない私の責任である。すぐにでも買うべきだが、親からの仕送りは限られている……。ドライヤーの値段がどの程度かは知らないものの、電化製品なのであまり安くはないイメージがある。

「お兄さん、すぐに謝る癖をなおした方がいいよ」

「善処する……」

 おそらくこれは他人とのコミュニケーションを最小限に抑えるために自然とついてしまった癖だろう。だからたしかに、彩音に対するときだけは控えるようにしたい。

「髪が乾いていないなら、まだ寝るべきではないだろうか」

「ううん、いいよ。お兄さんは明日も学校があるんだから、早く寝るべきだよ」

 彩音はそう云いながら、布団にくるまった。その様子は私に、小学校や中学校での宿泊行事の夜を想起させた。私は輪に入ることはなかったが、妙にみながはしゃいでいるのは分かった。私はいつも通り、彼らを怖いと感じていた。……しかし今、その気持ちが幾分か理解できた気がする。

 ふと、思った――私はずっと、羨ましかったのだろうか。

 人間を恐れ、同時に、憧れていたのだろうか。

「お兄さん、どうしたの?」

「な、なんでもない。電気を消すが、いいだろうか」

「うん」

 部屋が一瞬にして真暗になる。少し前までこの暗闇に気が狂いそうになっていた私だが、いまはそういった危惧が一切なかった。すべて、彩音のおかげである。

 私は床に寝転がった。明日も引き続き、玖貝麗子の様子を窺う。それから彩音に云われたとおりの買い物をして帰るのだ。明日の晩はオムライスをつくってくれるとのことだった。

 嗚呼、私は今、生きているのだ。

 私が浸っているあれこれは普通の人達にとっては当たり前のことばかりかも知れない。だけど今まで、その当たり前すら放棄していた私なのだ。まるで自分がつい先日生まれたばかりのような錯覚に陥っても不思議ではないくらいだ。

「お兄さん」

 彩音が呼び掛けてきたので、そちらを見る。彼女はこちらに身体を向けていた。暗闇に目が慣れたので、ぼんやりとその顔も視認できる。

「なんだろうか」

「お兄さんもお布団に入って」

 私はすぐさま、すっかり通例となった狼狽ろうばいを披露しそうになった。しかし彩音の表情は、夕食のときに見せた悪戯っぽいものでなく、ひたすらに穏やかだった。それは真剣ということであり、私は否応なく落ち着かされた。

「床だと寝心地、悪いでしょ。来て、お兄さん」

 数日前までの私なら、絶対に断っていた。だがこういった場合、それこそ野暮だと、いまの私には分かっていた。

 何かを喋ったら遠慮の言葉が出てしまいそうだったので、私は無言のまま、彩音と同じ布団に入る。一瞬、身体が触れそうになった。布団の中が温かいどころでなく暑いのは、私が風呂上がりでなおかつ極度に緊張しているせいだろう。これでは彩音の方こそ寝心地が悪くなってしまうと思ったが、そんな私の心を察してか、彩音は「いいんだよ」とだけ云った。

 さすがに身体を互いに向けている格好は気まずかったので、私は仰向けになった。だが彩音はそのままだ。

「お兄さん、彩音はこの生活が、お兄さんとの生活が、とても楽しいの」

 彼女の口調は独白のそれらしかった。私は黙って聞くことにする。

「お兄さんは彩音に感謝してくれているみたいだけれど、私もお兄さんに感謝しているんだよ」

 距離が近いので、彩音の生暖かい吐息が、私の首のあたりを撫でる。だがそれを些事さじと思うほどに、いまは彩音の言葉が私の意識を占めていた。

「彩音の家は、あんまり良い家じゃなかったから。お母さんは彩音達のために頑張ってくれて、良い人だけれど、働いてばかりなせいで、一緒にいることは全然ないの。だから家事全般はお姉ちゃんがやっていて、役割としては、お姉ちゃんがお母さんみたいなもので……だけどお姉ちゃんは彩音にとって、すごく恐ろしい人だったから」

 玖貝麗子の部屋で見た光景が脳裏に浮かんだ。偏執的に千代原真一を追い続ける彼女の軌跡。

「お姉ちゃんは彩音に酷いことをするような人ではないよ。でもお姉ちゃんはおかしい人で、彩音はお姉ちゃんがまた何か変なことを云ったりしたりしないかって、いつも怖かった。彩音はずっとお姉ちゃんに怯えていた。自分の家だけれど、彩音にとっては心落ち着く場所じゃなかったの。だからいま、お兄さんとこうして生活しているのが、なんだか夢みたいに楽しくて、すごく好きなの」

 私は胸が堪らなく熱くなり、込み上げる感動を伝えるすべが見つからないせいで、泣き出しそうなまでになっている。

「でも、お兄さん」

 そのとき、これまで穏やかに続いていた彩音の声音が、低くなった。

「いつまでこうしていられるのかな」

 その言葉は重く響いた。

 しかし、衝撃とは違った。私もどこかで、その疑問を持っていたからだろう。

「……分からない」

 このに及んで、私はまだ情けない男のままだった。どうしようもない男のままだった。

 申し訳ない、と謝りそうになった。注意を受けたばかりなので、それだけは咄嗟に堪えたが……。

 彩音も私もそれきり言葉は発さなかった。

 やがて彼女の寝息が聞こえてきた。ついぞ、私は気の利いた台詞なんて思い付けなかった。


    3


 私の行為は、はじめから破綻はたんが約束されていたと云っていい。

 少女を部屋に連れてきて、一緒に生活する。私の意図がどうであれ、それは立派な拉致監禁だ。一時的に成功しても、決して永続しないのは、考えるまでもなく分かることである。

 まだ義務教育を終えてすらいない少女が行方知れずとなるのだ。世間が放っておかない。その道のプロでも何でもない私が世間の目を欺いていられるのは、精々数日が限度だろう。

 いつまでもは続かない。私の犯罪は絶対に露見する。精神的に限界に来ていた私は正気の沙汰ではなかったから、こんな後先考えない手段に打って出た。理性を失っていなければ有り得ない愚行だ。

 それなのに、こんな僥倖が果たして他にあるだろうか……彩音と出逢ったのは、私が出逢ったのが彩音だったのは、あまりにも奇跡的だった。

 彩音は合意のうえで、私の部屋で暮らしてくれることになった。

 他でもない彩音本人が私のしたことを犯罪と認めないのである。彩音はちょっとした家出をしただけで、それで友人の家を頼っただけだという話で、事件性はなくなる。これは相手が彩音だったからであり、何度も繰り返すように、僥倖だったのだ。世界が意思を持って与えてくれた慈悲のようなものだったのだ。

 しかしこれだって、根本にある問題は変わらない。

 この生活がいつまでも続くわけがないのだ。

 今は奇妙な事情が重なり合い、玖貝麗子――他に含めるとしても、千代原真一と、仲野宮ゆめというらしい女子――だけしか彩音を探している者はいないが、それもこのあたりまでだろう。

 世間全体が敵になってもなお彩音を隠し通すとなると、さすがに無理な話だ。いつまでも世間の目を欺きながら、自立だってできていない私のような高校生が、彩音を養っていけるはずがない。それに、この生活が長くなれば、彩音本人が認めずとも、私の行為は何らかの犯罪に相当すると見做されるかも知れない。法律に明るくないので、詳しいことは分からないが。

 何より、それらすべてを無視したとしても、いくらいまは合意のうえであろうと、彩音にも彩音の人生があるのだ。それを尊重せずに、私に付き合わせていてはいけない。

 ならば、早いうちにこの生活をやめてしまえばどうか。幸運にも私の行為は、少なくとも現時点ではおそらく、犯罪とはならないのだから。それで何も問題ないのではないか。

 ……しかし状況は、そう単純にもいかないのだった。

 嗚呼、この状況の、なんと奇妙なことだろう。

 彩音は姉に追われている。姉が通り魔と知って逃げ出した彩音。姉は狂人だ。捕まれば、酷い目に遭わされるに違いない。最悪の場合、殺されるかも知れないのだ。

 かと云って、姉の罪を告発するわけにもいかない。それは彩音の破滅をも意味している。姉は少なくとも、外面は優等生を演じきっており、その異常性は露呈ろていしていない。これまで何とか保たれていた均衡を崩すなんて、そんな決断が彩音にできるとは思えないし、できてはならない。

 私の行いは、犯罪は、慈悲深いことに、犯罪とはならなかった。本来だったら私はとっくに破滅していたのに、そうならなかった。彩音のおかげで。だが今度は、その彩音が危機に瀕している。

 こんなことは続かない。いずれ、しかもそう遠くないうちに終わりが来る。そのとき、私だけは助かるのに、私を救ってくれた彩音は破滅してしまうなんて、とても看過できない。この立場が逆なら良かったのに……。

 どうすればいいのだ。何か、活路はないのか。

 ……私は彩音の寝顔を見ながら、そう考え続けていた。

 安らかに眠る彩音。彼女は女神とも聖女とも違う。今なら最適な言葉が見つけられる。彩音は天使だ。穢れのない清らかな存在。彼女は何も悪くない。ただ、運が悪かった。玖貝家に生まれてしまったことで、彼女の幸福はつかのそれでしか、仮初かりそめのそれでしか実現しなくなってしまったのだ。

 私にはそれが我慢ならない。

 私は彩音のために、何をしてやれるだろう。

 私の破滅を防いでくれた彼女の破滅を、私もまた、是が非でも防ぎたい。

 こんな幸せなひとときの中で、私は焦燥に駆られていた。

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