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ある慈悲深き恋の結末  作者: 凛野冥
柏崎恭平の章 肆
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20/31

1「幸福のひととき」

    1


 帰宅すると、彩音がカレーをつくっている最中だった。

 材料は、昨日のうちに彼女に云われたとおりに私が買って来た。彼女がこの部屋に来てからも私はずっとコンビニエンスストアやスーパーマーケットで買う弁当に頼っていたのだが、今日の夕食からは彩音が自分でつくりたいと申し出たのである。

「おかえりなさい、お兄さん」

「た、ただいま」

 私の帰りを、少女の温かい声と料理の香りが迎えてくれる……少し前まで想像すらしてなかった光景である。些細なことではあるのだろうが、私は目頭(めがしら)が熱くなった。

「もう少しでできるからね。ご飯はもう炊けているけれど、カレーはもう少し煮込みたいの」

 キッチンの前に立つ彩音は、エプロン姿だ。これも昨日に私が買って来た。まだ中学生とはいえ、その格好には確かな母性を感じる。年齢に関係なく、女性とはこういうものなのかも知れない。

「それより何より、無事に帰って来てくれて安心したよ」

「気を煩わせてしまって、申し訳ない……」

「ううん。謝られちゃうと、彩音も困っちゃうけれど」

「も、申し訳ない」

「もう、お兄さんは謝りすぎだよ」

 彩音は可笑しそうに笑った。よく分からないが、彼女を笑顔にできたなら、私にとってそれ以上はない。

 私はブレザーをハンガーに掛けながら、ひと通りの報告を述べておくことにした。

「案の定、彩音の行方不明は表沙汰になっていない。玖貝麗子も天則高校に登校している」

 今日私が学校に行ったのは、情報を集めるためだった。彩音を守るにあたって、敵の動向を探るのは必要不可欠だ。あまり欠席を続けていられないという事情もある。

「だが玖貝麗子は、これも予想どおり、彩音を探している。放課後は少し尾行というものをしてみたのだが、およそ間違いないと分かった。それから、千代原真一も彩音を探しているようだ。玖貝麗子が協力させているのだろう」

「えっ」

 彩音はこちらに振り向いた。

「そんな大胆な……けれど、お姉ちゃんならやりかねない、かも」

「昼休みには学校内で会合めいたものをしていたが、千代原真一の他にも、もうひとり女子生徒が協力しているようだった」

「もしかしたら……」

「心当たりがあるのだろうか」

「仲野宮ゆめ、って人。彩音は会ったこと、ないけれど」

 知らない名前だ。これまで外界との関わりを断ちながら生活を送ってきた私なので、そもそも知っている名前の方が希少だが。

「通り魔の方は?」

「千代原真一と交際していた姫路愛穂が殺されたのは確かだった。それきり被害者は出ていないらしい」

「目的は達成されたわけだから、もう通り魔殺人も終わりなのかな……。でもお姉ちゃんだったら、駄目押しにもうひとりくらい殺しちゃいそう……」

 彩音が表情を曇らせるのを見て、私は胸が痛んだ。

「嫌な想像はやめた方がいい。そういう役割は、私が担うから、彩音が気にする必要はない」

「うん……ありがとう」

 実際、彼女は玖貝麗子を恐れなくていい。この場所が嗅ぎ付けられる展開など、まず有り得ない。玖貝麗子からしてみれば、私の存在はまったくのイレギュラーであり、知るよしがないからだ。彩音にはこの部屋で安全に暮らして欲しい。必要な物資も情報も、私が仕入れてくればいい。彩音のためと思えば、私には何も躊躇うことはない。

 ただ、彩音が此処にいてくれれば……それだけが私の望みなのだから。

「よし、できたよ、お兄さん。席に着いてー」

 彩音は弾んだ声でそう告げた。席と云えば座椅子がひとつあるだけだがそれは彩音に譲るので、私は床に正座した。

「あれ、お兄さん、丁度良いお皿が一枚しかないよ」

「あ……失念していた。私の分は、お茶碗によそってくれて構わない」

 一人暮らしのうえ、客人をもてなす機会なんて一度としてやって来ないと決め込んでいた私だ。食器の類は必要最小限しかない。

「それじゃあ見栄えが悪いよ。お茶碗は彩音が使うね」

「し、しかし――」

「いいの、いいの」

 低いテーブルの上にカレーの盛られた丸皿とお茶碗が置かれた。私は空腹だったこともあり、鼻腔をくすぐる良い香りに、若干の眩暈がしたくらいである。

 彩音はテーブルを挟んで私と向かい合うかたちで座椅子に座ると、

「さあ食べて、食べて」

 そうしたいのは山々だったが、しかしそういうわけにもいかなかった。

「あ、ごめん、スプーンね。うっかりしていたよ」

 彩音はまた立ち上がった。だが私の懸念があるのはその先だった。

「お兄さん、スプーンってもしかしてひとつしかない?」

「も、申し訳ない……」

 私は自らの間抜けぶりを呪った。せっかく彩音が手料理を振る舞ってくれると云うのに、こんな初歩的なところで水を差してしまうとは……。さすがにカレーを箸で食べるなんて代用は効かない。だが、

「お兄さん、彩音は良いことを思い付いちゃったよ」

 彩音に気を落とした様子はなく、むしろさらに楽しげになっていた。この笑顔はたぶん、悪戯っぽいと形容されるものと思われる。彼女はスプーンを持ったまま、私の隣に座った。

「食べさせてあげるよ。彩音はお兄さんが食べ終わってからでいいから」

「そ、そ、それは、ま、待って欲しい。意味がいまいち分からない」

 食べさせてあげる? それはいい。いや、良くないが、容易に認められない事態だが、それが何を指すかくらいは分かる。彩音がスプーンを持った右手でしているジェスチャーを見ても瞭然だ。彼女がカレーをすくい、私の口に運ぶということだろう。スプーンがひとつしかない以上、どちらかが食べるのを後回しにするというのは自然だ……が、

「あ、彩音が私にその……食べさせる道理が不明だ。私が自分で食べてから、スプーンを洗って、彩音が食べればいい……この順番は逆であってもいいし、私としては――」

「嫌なの?」

 彩音が私を真っ直ぐに見詰めながらそう訊ねてきて、私は口籠ってしまった。

「い、嫌だとかそういう話では……」

 それから彩音はすぐに、可笑しそうに笑った。

「ごめんね、からかうみたいなことしちゃって。でもお兄さん、お兄さんはもともと彩音を拉致監禁……ううん、お兄さんが酷い人じゃないのは知っているけれど、でも行為としては、そういうことをしようとしていたでしょ? だから下心みたいなのが微塵もなかった、ってわけでもないでしょ?」

「そ、それはたしかに……否定は、できない」

 彩音に対して嘘をついたり誤魔化したりしないと心に誓っているので、ここでもそれは守るしかなかった。

「素直になっていいんだよ、お兄さん。此処には彩音とお兄さんの二人しかいないんだから」

 彩音と二人でいることに慣れ始め、ようやくある程度の緊張を解いて接することができてきた私だが、今また脈拍が早くなるのを感じる。彩音の纏う雰囲気が、いつにもまして蠱惑的なのだ。

 第一、私のことは措(お)いておいても、彩音の厚意を無下にはできないではないか。ならば、ならば私は……。

 彩音がカレーをすくったスプーンを、私の口に近づけてくる。鼓動はますます大きくなり、この心音は彼女にも聞こえているに違いない。恥ずかしさやら何やらがない交ぜになって脳内が混沌としているまま、私はスプーンを咥えた。

 カレーはまだ熱くて危うく火傷しそうになったが、どうにか咀嚼(そしゃく)する。それから彩音がゆっくりとスプーンを引き抜いていく。私がカレーを飲み込むと、彼女は「どうかな」と、期待と不安が入り混じった声音で訊ねてきた。

「すごく、美味しい」

 正直なところ、彩音に食べさせてもらうという行為による緊張のせいで味があまり分からなくなっていたが、その言葉はお世辞でなく、自然と出た。美味しい、ではなく正確には、嬉しい、なのだと思う。

 生命維持のための活動としてだけでない食事とは、一体いつ振りだろうか。押し寄せる感慨に涙腺が緩み、視界が滲んだ。

「え、お兄さん、泣いているの? 本当は不味かった? あ、彩音、あんまり料理は得意じゃないから……」

「いいや、美味しい。本当に美味しい」

「そう? ありがとう……。そんなに喜んでもらえると、彩音もなんて云うか、冥利(みょうり)に尽きるよ」

 彩音は照れ笑いしながら、二口目をすくった。

「ほらお兄さん、そんなに泣かなくても、たくさんあるんだから」

 今まで口にしてきた無機質なそれとは違い、家庭的という言葉が連想される温かい味を噛み締めながら、私はまた、自らの幸福を噛み締めていた。

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