1、2「青い夜に疾走」
1
――真一なんか、嫌いです。
僕はその言葉を、あのときにも受けた。あのとき――僕が姫路愛穂と交際を始めたということを、ゆめに報告したときだ。
ゆめがどんな表情を浮かべていたのかは、顔が伏せられていたため分からない。だが底知れぬ諦観の宿ったその言葉を受け、僕はやはり、何も答えられなかった。
それきり、彼女とは会っていなかったし、連絡も取っていなかった。麗子さんから今回の話があってはじめて、ああして家を訪ねたのだ。一ヶ月も間があったから、あのときの何とも云えない気まずい空気は取り払われているはずと思って。ゆめは気分屋なのだから、と自分を納得させて。
愚かだった。自分の未熟さに恥じ入るばかりだ。
僕はゆめの気持ちを考えていなかったのだ。奇天烈な言動が多くても、ひとりの人間であることに違いないのに。
いつから、こんなふうになってしまったのだろう。
僕は昔、もっと違った。何かが変わったのだ。鮮烈な色使いで描かれた絵画が長い年月が経って色褪せ、もとの姿が分からなくなるように、変わったのだ。
あるいは、はじめ強烈に感動した音楽が、何度も繰り返し聞くうちにすっかり慣れて、平凡に感じられてしまうように……。
携帯の着信音がして、僕は曖昧に続いていた思考を打ち切った。画面には麗子さんの名前が表示されている。
「もしもし」
『もしもし。もう帰って来ている?』
「はい、自分の部屋です」
もう夜の十時である。さすがにこの時間まで彩音ちゃんの捜索を――いや、していたっておかしくない。人がひとり消えてしまったのだから。いくらゆめが帰ってしまったと云っても、僕だけで何かやっていても良さそうなものである。だが、麗子さんには申し訳ないが、僕は……。
『私もさっき帰って来たところなのだけれど、アパートの前で他の住人のかたと会って、立ち話をしたのよ。そうしたら、彩音に関して重大な情報が飛び込んできたの』
麗子さんは普段よりも少し早口で喋っている。
『彩音が一度、昨日に帰って来ていたのよ』
「え!」
どうしてそんな大事なことが今頃、と思ったけれど、僕ら以外は彩音ちゃんが行方不明になっているとは知らないのだ。それがどれほど重要か分からなくても無理はない。
『その人が目撃したらしいわ。どうしてそんな話が出たのかって云うと、彩音が男の子と一緒にいたらしくて、そういう話題が好きな人だから私に訊いたのよ。あれは彩音の彼氏なのか、って。私は平静を装いながら話を聞き出したわ』
「そ、それで?」
『その人も見ただけだから、詳しいことは分からなかったのだけれどね。見たのは、彩音とその男の子が部屋に這入って行くところだったんだって。お昼過ぎで、私達が学校にいた時間ね。彩音は制服姿で、男の子は私服……ジーンズに黒のパーカーで、垢抜けたファッションではなかったらしいわ。体格は中肉中背、髪は黒くて、男子にしてはちょっと長め。それから、年齢は彩音よりも上に見えたって。高校生じゃないかって。二人には周囲を憚る様子があって、時間も本当なら学校に行っていなきゃいけないはずの時間だから、逢引きの類と思ったそうよ。……このくらいね、聞けたのは』
僕は思考する。そこから、どんな推論が導き出せるのか……。
すぐにはまとまりそうにない。
「ともかく、彩音ちゃんが無事だとは分かりましたね。それだけでも、だいぶ安心です。問題はその男子ですけれど……麗子さん、心当たりは?」
『ないのよ。繭ちゃんにも訊いてみたけれど、彩音にはそういうボーイフレンドはいないはずだと云っていたわ。それで、ゆめちゃんの意見を聞いてみたいと思って。彼女、携帯持ってないから、私からだと連絡できないでしょう』
「あ……えっと、ゆめは……」
先程の出来事があった手前、僕も簡単に連絡するというわけにいかない。同じ失敗の繰り返しとなる。
『どうしたの? 彼女と何かあったの?』
さすが麗子さんは鋭かった。
「そうですね。これは僕が悪いんです……これまで棚上げにしてきた問題が、蓄積されてきた誤魔化しが、とうとう臨界点を突破したようなもので……」
『いいから、私に説明してみて。抽象的な云い方をするのは、それこそ誤魔化しよ、真一くん』
麗子さんは珍しく、厳しい云い方をした。昨晩の別れ際に、僕の恋愛感情というものへの無理解について言及したときと同様に。
彩音ちゃんのことについて大きな前進があったこのタイミングで私事を相談するのは申し訳なかったけれど、僕は麗子さんに、何があったのか、ゆめに何を云われたのかを話した。麗子さんの助言が欲しいというのも本心だった。
『――ねえ真一くん』
「はい」
『ずっと不思議だったのよ、真一くんとゆめちゃんの関係って。どうにもはっきりしていなくてね。それで当人達はと云うと、真一くんがそんな状態に甘んじている一方で、ゆめちゃんは焦がれていたのね。真一くんは鈍感ではないけれど気が回らないし、ゆめちゃんは我儘だけれど素直じゃない。だけどもう、そんな中途半端ではいけないわ』
「その通りです」
『既に答えは出ているのでしょう? 貴方は』
「……はい」
『なら、あとは貴方が行動するだけよね』
「ありがとうございます、麗子さん」
僕は通話を切って、出掛けられる格好に着替え、財布と携帯だけをポケットに突っこんで外に出た。庭の倉庫に仕舞い込んでいた自転車――俗に云うママチャリ――を引っ張り出し、サドルに跨って、ペダルを踏んだ。錆びついたチェーンがガタガタと音を立てた。
秋の夜にしては薄着で出てきてしまったため、風が冷たくて堪らない。だがそういった一切に構わず、僕は疾走する。仲野宮ゆめのもとへ。
2
仲野宮ゆめは中学時代、孤立を極めていた。彼女は人付き合いが破滅的に苦手なので、はじめのうちは彼女を気に掛けていた人々も次第に離れていった。ただひとり、僕を除いて。
入学して最初に話したのが隣の席の彼女だったからそのよしみで、というだけではない。
僕はゆめに惹かれていたのだ。彼女の孤立を孤高と感じていた。
僕は昔から、取り立てて変わったところのない、平凡な人間と自らを評価していた。周りから云われることを鑑みても、それは間違っていないようだった。あまりに普通で、かえって掴みどころがない、とそういうふうによく云われた。そんな僕だから、普通なところが一切ないようなゆめが、比類なく鮮烈に映ったのだ。
僕はゆめの傍にい続けた。それゆえに、それまでは普通に友達がいて普通に人付き合いをしていた普通な僕も、周囲から段々と疎外されるようになっていった。ゆめと一緒にいる、という一点においてだけ僕は個性を獲得したというわけだ。
と云っても、そんなことはどうでも良くて、僕はただ、ゆめの傍にいたいというだけだった。虐めに近い経験もしたが、僕はゆめから離れなかった。むしろ、その迫害がゆめに及ばないよう努めた。結果、ゆめは僕と会ってからは一度も虐めを受けなかったはずだ。そこはこんな僕が誇れる数少ない功績のひとつである。
ゆめと過ごす時間が長くなっていくにつれて、彼女について徐々に分かってきたことがある。クラスのみなが絶対に知らない彼女の新たな一面というものを次々に発見し、表層でなく、その中身についても部分的に窺い知れるようになって、はじめて分かったことだ。
それは、ゆめが脆い人間だということだった。彼女は優れていたけれど、強くはなかった。奔放な性格も不安定な精神の顕れだったのだ。
ゆめは、触れれば壊れてしまいそうな、そんな少女だった。死を望む言葉を聞くたびに、それが口癖とは分かっていても、大きな危機感を抱く僕だった。
それで彼女に幻滅するというようなことはなかった。そうではなく、僕がゆめを守ってあげたいと――余計だと、お節介だと、勝手だと、自分本位だと、自己満足だと、独り善がりだと、そうと知りつつも、しかし――何にもまして強く思った。
ゆめの傍にいたいし、傷付きやすいゆめを守ってあげたい。
それが僕の固い意志だった。平凡な僕が、非凡なほどに譲れないと思う本懐だった。
なのに、いつしか僕は、それを見失っていたのだ。
ゆめとの関係を腐れ縁だとか、そういった類と見做して、甘えていた。逃げていた。
ゆめを傷付けさせないと誓ったかつての少年は、いまの僕を決して許さないだろう。誰であろう僕こそが、ゆめを傷付けてしまっていたのだから。
だから、僕は向き合わなければならない。余計でも、お節介でも、勝手でも、自分本位でも、自己満足でも、独り善がりでも、ゆめを守りたい。
それには、もう一度立ち返るだけでは駄目だ。
麗子さんが云ったとおり、僕の中で既に答えは出ていた。




