第002話 空の階段は片道切符
「シオン。あの階段、登れると思う?」
リッカが空を指さした。
西の迷宮から帰った翌朝、私たちの頭上には、雲に向かって伸びるはずの石段が、たった一段だけ浮いている。
「登れるよ。一段目までは」
「その先は?」
「落ちる」
「説明が簡潔!」
モグが四本の脚でぴょんと跳ねた。
「俺、飛べないけど落ちるのは得意だぜ!」
「それ、得意って言わないから」
笑いながら工具鞄を開けて、私は手を止めた。
いつも右側の細い革の輪に収まっていた、銀色の道聴きの針がない。
昨日までなら、石段の奥に流れる魔力の細い道筋を、針の先で一筋ずつ聴き分けられた。今は壁に触れれば大きな歯車の振動くらいはわかる。でも、音のしない細い配線を探ることはできない。
白石回廊の帰還路を直すために、あの針は迷宮の心臓に置いてきた。
「……針がないと、空の階段なんて直せないかも」
私がつぶやくと、リッカはあっさり言った。
「じゃ、直せる方法を探しに行こう」
「それが見つからないから困ってるんだけど」
「見つからなかったら、私が階段を斬って増やす」
「絶対に増えない!」
モグの底板に浮かぶ銀色の地図が、ちかりと光った。
『第零迷宮 帰還路、起動待機中』
その文字の下に、新しい一行が現れる。
『接続点:風見郵便局。二段目、未配達』
「階段を……配達するの?」
「郵便局なら切手がいるな!」とモグ。
「石段に切手を貼るのは、たぶん違う」
リッカが笑ってから、少しだけ声を落とした。
「行く? シオン」
七年前にいなくなった母の署名が、地図の隅で光っている。
誰かに頼まれた修理じゃない。報酬だって出ない。師匠が戻るまで工房で待つこともできる。
私は鞄の留め金を閉じた。
「行く。母さんが残した道なら、私が確かめたい」
自分で言って、少し驚いた。
リッカは何もからかわず、ただ拳を差し出してきた。私は昨日と同じように、その拳に自分の拳を当てた。
「じゃあ、初めての遠出だね」
「その前に師匠への置き手紙!」
「そこは現実的なんだ」
「工房の鍵を持ち逃げしたと思われたくないから!」
*
風見郵便局は、町外れの丘の上にあった。
屋根には巨大な風見鶏。窓には『空路郵便、ただいま休止中』の札。郵便局なのに、入口には一枚も手紙が届いていない。
代わりに、屋根の上から声が降ってきた。
「下の人ーっ! そこに修理屋さんはいますかーっ!」
見上げると、青い制服の少女が風見鶏にしがみついていた。年は私と同じくらい。背中には、本人より大きな郵便鞄。
「いるよ! どうしたの!?」
「空の停留所から降りられなくなって、三時間かけて屋根まで滑り落ちましたーっ!」
「無事じゃない!」
「無事です! たぶん!」
リッカが屋根に飛び乗り、少女を抱えて地面に着地した。
「私はルーネ。空路郵便の見習い配達員です」
「私はシオン。迷宮修理屋の見習い」
「俺はモグ! 金具専門の見習い食いしん坊!」
「最後の職業、初めて聞きました」
ルーネは息を整えると、丘の向こうを指さした。
空に浮く一段の石段が、さっきより低くなっている。
「あの階段は、空の停留所を地上につなぐ『帰り道』なんです。二段目の行き先が消えて、停留所を支える鎖までほどけ始めていて……」
ごごん。
遠くの空で、鐘のような音がした。
石段が、指一本分だけ下がる。
「正午の鐘が十二回鳴り終わると、停留所ごと落ちます。真下は町の市場です」
昨日、宝箱が転がり込んできた、あの市場。
「今、何回?」
「八回目です」
「残り四回!?」
ルーネは深刻な顔でうなずいた。
「局長が昔から言ってました。郵便局は、手紙だけじゃなく、帰る場所も届けるんだって」
私は空を見上げた。
針がない。時間もない。
でも、帰る場所がなくなるのを、見ているだけなんて嫌だった。
「修理する。みんな、手を貸して!」
*
郵便局の地下には、古い配達機が眠っていた。
木製の机ほどの大きさで、真ん中に丸い真鍮の盤。周りには、町や山の名前が刻まれた小さな札が並んでいる。
そのうち一枚だけ、真っ黒に塗りつぶされていた。
「空の停留所の行き先札です」とルーネ。
私は指で盤をたたく。
こん、こん。
返ってくるのは鈍い音だけ。針があれば、札の下を通る魔力の糸を一本ずつ聴けたはずだ。
「わかる?」とリッカ。
「大きな歯車は動いてる。でも、どの細い道が切れてるのか、わからない」
言い終わる前に、九回目の鐘が鳴った。
天井から砂がぱらぱら落ちる。
「じゃあ、細い音を大きくすればいいんじゃない?」
リッカが剣を抜いた。
「だから斬らないでって!」
「斬らないよ。これ、よく響くんだ」
彼女は剣の腹を真鍮の盤にそっと当て、柄を指先ではじいた。
きぃん。
澄んだ音が地下室を満たす。
私は盤に手を置いた。剣の響きが金属の中を走り、細い道のどこかでぷつりと途切れる。
「……そこ! もう一回!」
リッカが剣を鳴らす。私は指をずらす。
音が途切れる場所は、黒く塗られた札の真下だった。
「モグ、この札の留め金、食べられる?」
「待ってました!」
がりっ。
モグが真鍮の小さな留め金を食べる。札を持ち上げると、下から黒い粉がこぼれた。
白石回廊の心臓に詰まっていたものと、同じ色。
「黒い手袋の人……ここにも来たんだ」
十回目の鐘。
ルーネが郵便鞄を抱きしめる。
「直せますか?」
「粉は取れる。でも、行き先の文字まで削られてる。名前がわからなきゃ、道は戻らない」
「名前なら、配達員が覚えています!」
ルーネは鞄から一通の手紙を取り出した。封筒の宛名には、かすれた文字が残っている。
『空の停留所・風待ち三番桟橋 管理人さま』
「これ、ずっと配れなかった手紙です。停留所が消えても、宛先は消していません」
私はルーネを見た。
「その名前、借りてもいい?」
「届けるためなら、どうぞ!」
札の表面を布で拭き、工具鞄から彫刻針を取り出す。道聴きの針とは違う、ただの鉄の針だ。音は聴けないけれど、文字は刻める。
私は一文字ずつ、行き先を彫り直した。
十一回目の鐘。
最後の『橋』を刻み終えた瞬間、盤の中心が青く光った。
「やった!」
しかし、盤の針は動かない。
真鍮の歯車が、かたかたと空回りしている。
「どうして!?」とルーネ。
私は歯車の隙間をのぞき込んだ。
留め金がない。モグに食べてもらった、あの小さな金具だ。
「モグ! さっきの金具、まだお腹にある!?」
「もう消化した!」
「早すぎる!」
「金具専門だからな!」
リッカが腰のベルトを外した。
「これ、使える?」
ベルトの端に、丸い銀色の留め具がついている。
「大きすぎる。削る時間もない……」
そのとき、モグがふたを勢いよく開けた。
「だったら俺を使え!」
「え?」
「俺の歯、金具より丈夫だぞ!」
モグは歯車の隙間に頭を突っ込み、一本の歯で二つの車輪を噛み合わせた。
「ちょっと痛いけど、今なら回せる!」
「モグ、無理しないで!」
「箱をなめるなよ! 俺、仲間なんだろ!」
胸の奥が、ぎゅっと熱くなった。
「……うん。お願い、モグ!」
リッカが盤の大きな車輪を押す。ルーネが宛名を読み上げる。私は、モグの歯がずれないよう両手で支えた。
「風待ち三番桟橋! 帰り道、配達します!」
十二回目の鐘が、鳴り始めた。
ぎぎぎ、と歯車が回る。
石段の落下を告げる鐘の音に重なって、配達機が一度だけ高く鳴った。
ちりん。
窓の外に、二段目の石段が現れた。
続いて三段目、四段目。空へ向かう道が、雲の裏まで伸びていく。
鐘が鳴り終わる。
けれど石段は落ちなかった。
ルーネが座り込み、モグが床に転がり、リッカは大げさに剣を掲げた。
「修理完了!」
「私の剣、今日は一回も斬ってないんだけど!」
「大活躍だったよ。世界一うるさい聴診器」
「褒め方がひどい!」
モグが歯をかちかち鳴らした。
「なあシオン。俺、今日から修理道具って名乗っていい?」
「道具じゃないよ」
私はモグのふたをそっと閉じた。
「仲間。ちゃんと、仲間」
しばらく、箱の中が静かになった。
「……じゃあ報酬は金具三個で!」
「感動を返して!」
*
夕方、風見郵便局に一通の手紙が届いた。
空の停留所から降りてきた小さな紙飛行機だ。封筒には、古びた修理屋の印が押されていた。
七年前にいなくなった母が使っていた、あの署名。
私は震える指で封を切った。
中には、短い一文だけ。
『道を直す者へ。第零迷宮に来るなら、ひとりで来てはいけない。』
その下には、見覚えのない細い文字が続いていた。
『黒い手袋は、帰り道の名前を集めている。』
私は紙を裏返した。差出人の名前はない。母の印が本物かどうかも、まだわからない。
「どうする?」とリッカ。
丘の向こう、雲に伸びる階段が夕日を受けて金色に光っている。
針は戻らなかった。私ひとりなら、今日の修理もできなかった。
だけど、剣の音があった。配達員の記憶があった。金具を食べる、変な箱の歯があった。
「行こう。第零迷宮へ」
私は手紙を畳んで、工具鞄の空いた革の輪に結びつけた。
「今度は、帰る道を一緒に探そう」
リッカが笑う。
「いいね。片道切符は好きじゃない」
「俺は食べられる切符がいい!」
「食べたら帰れないでしょ!」
ルーネが郵便局の扉から顔を出した。
「待ってください! 空の停留所へ行くなら、これを!」
差し出されたのは、三枚の切符。
一枚目には『修理屋』。二枚目には『剣士』。三枚目には『荷物』。
「俺だけ荷物!?」
「ごめんなさい、ミミック用の欄がなくて!」
私たちは笑いながら、石段の一段目に足をかけた。
そのとき、モグの地図の白い空白に、新しい文字が浮かぶ。
『第零迷宮への接続、第一関門通過。残りの帰還路:六。』
六つ。
その先で母が待っているのか、それとも、もっと大きな秘密が眠っているのか。
まだ何もわからない。
でも、今度は私が、自分の足で選んだ道だ。
「よし。次の故障はどこだ!」
リッカが先頭を駆け上がる。
「故障がある前提で進まないでーっ!」
空の階段に、私の声が響いた。
(第002話・了)




