第003話 荷物切符で雲を渡れ
「切符を拝見しまーす!」
雲の上で、帽子が喋った。
「……帽子?」
「帽子じゃありません。駅員です!」
空の階段を登り切った私たちの前で、制服の帽子がぴょこんと跳ねる。その下から、背の低い少女が顔を出した。大きな丸眼鏡に、肩から下げた真鍮の笛。どうやら帽子のほうが本人より立派らしい。
「風待ち三番桟橋へようこそ。駅員のナナセです。切符を!」
リッカが『剣士』、私が『修理屋』と書かれた切符を差し出す。
最後にモグが、四本の脚を精いっぱい伸ばした。
「俺のは『荷物』だ!」
「はい、荷物のお客様はこちらの台車へ」
「お客様なのに台車!?」
ナナセは慣れた手つきでモグを台車に載せた。
「生きてる荷物は初めてですが、規則に『生きていてはいけない』とは書いてませんので」
「いい駅員さんだね」とリッカ。
「褒めていいの、それ?」
私たちの足元に広がっていたのは、雲の海だった。
白い波の上を、帆の代わりに風車をつけた船が滑っている。空中に浮く桟橋が幾本も伸び、遠くの小島には、家々の煙突が突き出していた。
すごい。
初めて見る景色に、思わず息を忘れた。
「シオン、口開いてるよ」
「開くでしょ、これは!」
「俺も開いてるぞ!」
「モグはいつも開いてる!」
そんな私たちの横を、船が一隻、ゆっくりと通り過ぎた。
甲板には乗客が大勢いた。けれど誰も手を振らない。みんな不安そうに、こちらの桟橋を見ている。
船は桟橋の先まで来ると、見えない壁にぶつかったように止まった。
ごん。
船首が揺れ、また雲の沖へ押し戻される。
「……あれ、どうしたの?」
ナナセの顔から笑顔が消えた。
「帰港できないんです。昨日から、どの船も」
*
桟橋の詰所には、天井まで届く巨大な巻き上げ機があった。
真鍮の胴に鎖が巻きつき、歯車がいくつも噛み合っている。ここでは雲の上の船を、目に見えない『帰港線』で桟橋へ引き寄せるのだという。
「行きは風で進めます。でも帰りは、この機械が船の行き先を覚えていないと、桟橋に近づけません」
ナナセが窓を指さした。
雲の沖では、さっきの船が何度も同じ場所を回っている。甲板の老人が、子どもに毛布をかけていた。
「今夜、雲潮が上がります。潮に巻かれたら、あの船は下の世界まで流されてしまう」
「残り時間は?」とリッカ。
「夕鐘まで。あと一時間です」
私は巻き上げ機に手を当てた。
ごと、ごと。
大きな振動なら、まだわかる。けれど細い魔力の流れは、失った道聴きの針がなければ聴けない。
機械の横には、行き先を刻んだ銅板があった。文字の部分だけ、黒く削り取られている。
指に黒い粉がついた。
「白石回廊と、風見郵便局にあったのと同じ……」
黒い手袋は、帰り道の名前を集めている。
あの手紙の一文が頭をよぎった。
「名前を消してるんじゃなくて、どこかへ持っていってるのかもしれない」
口にすると、少し怖くなった。
でも、今は推理より修理だ。
「銅板の名前がわかれば、機械は直せる?」とリッカ。
「それだけじゃだめ。見て」
私は機械の下を指した。
帰港線を巻き取る太い鎖が、途中で切れている。先端は雲の沖へ落ち、反対側の金具だけが空回りしていた。
「名前を戻しても、鎖がつながらなきゃ船は引けない」
「じゃ、向こう側の鎖を取りに行こう!」
「どうやって?」
リッカは剣を抜いた。
「泳ぐ?」
「雲は水じゃないよ!」
「じゃあ斬って道を作る?」
「それも違う!」
ナナセが、小さく手を挙げた。
「……荷物なら、向こうへ送れます」
*
詰所の裏には、細い鉄の管があった。
『忘れ物返送管』。
雲の上で落とし物をした人のために、荷物だけを対岸の受取所へ運ぶ仕組みらしい。人は通れないけれど、こちらの機械とは別の小さな風車で動くため、まだ使える。
「これなら鎖の先を引っ張るための細い呼び綱を送れます。でも、対岸で綱を鎖につなぐ人がいません」
ナナセが唇を噛んだ。
「父が対岸の管理人なんです。昨日から連絡がなくて……。向こうの機械まで壊れていたら、もう」
「行けるぜ」
台車の上で、モグがふたを開けた。
「俺が行く!」
「モグ!?」
「切符に書いてあるだろ。『荷物』って!」
リッカが吹き出した。
「まさか、その切符が役に立つなんて」
「笑うなよ! 俺だって立派な荷物になれる!」
「その志、初めて聞いた」と私。
返送管の入口を測る。モグの幅ならぎりぎり入る。ただし、出口が開かなければ戻ってこられない。
私は首を振った。
「危険だよ。向こうに着けても、帰れなくなるかもしれない」
モグの小さな目が、私をまっすぐ見た。
「シオン。お前、最初に俺が『助けて』って言ったとき、笑わずにふたを開けただろ」
「……うん」
「だから今度は、俺が誰かの『助けて』を聞く番だ」
金具しか食べない、騒がしい宝箱。
でも、その言葉は私の胸のいちばん柔らかいところに届いた。
「わかった。お願いする。でも約束して」
「なんだ?」
「絶対、帰ってきて」
モグは歯を見せて笑った。
「帰り道を直す修理屋がいるんだろ?」
私はうなずいた。
「いる。私が直す」
*
作戦はこうだ。
モグが呼び綱の先端と工具を抱え、返送管で対岸へ行く。向こうで切れた鎖に綱を結び、こちらから引き寄せる。鎖をつなぎ直したら、銅板の行き先を復元する。
「肝心の行き先の名前は?」とリッカ。
ナナセが机の引き出しを開けた。
「対岸には、帰港記録の控えがあるはずです。昔は同じ記録を両岸で一枚ずつ保管していたので」
「それだ!」
私が叫ぶと、ナナセが少しだけ胸を張った。
「規則を覚えるのだけは得意なんです」
「それ、すごい才能だよ」
「……初めて言われました」
私は工具鞄から丈夫な麻糸の束を出した。糸をモグの取っ手に結び、最後に小さな鈴をつける。
「向こうに着いたら三回鳴らして。困ったら二回。戻るときは一回」
「了解! 腹が減ったら?」
「金具を食べないで!」
「選択肢が厳しい!」
ナナセが返送管のふたを開ける。
『荷物のお客様、一名』。
彼女が切符に判を押した。
「行ってらっしゃいませ!」
「俺は荷物じゃなくて仲間だーっ!」
モグは叫びながら、風の管へ吸い込まれていった。
*
最初の十分は、何も起きなかった。
二十分目、麻糸がぴんと張った。
りん、りん、りん。
「三回!」
ナナセが顔を上げた。
「着いたんだ!」
私は糸を少しずつ繰り出した。向こうから、がりがりと金属を噛む音が伝わってくる。
「モグ、仕事してるね」とリッカ。
「お願い、鎖じゃなくて留め金だけ噛んで……」
そのとき、雲の沖で低い鐘が鳴った。
夕鐘にはまだ早い。
窓の外を見ると、白い雲の下から灰色の波がせり上がってきていた。雲潮だ。予想より早い。
「あと十五分です!」
ナナセが叫ぶ。
同時に、麻糸が二回震えた。
りん、りん。
「困った合図!」
糸の先で何かが引っかかっている。
私は巻き上げ機の裏へ潜り込んだ。古い鎖の受け具が斜めに曲がり、引き込もうとするたびに歯車へ噛み込んでいる。
「リッカ、そこの赤いレバーを押さえて!」
「斬る?」
「押さえる!」
「今日は剣の出番がない!」
「剣じゃなくて腕の出番!」
リッカが笑って、レバーに全体重をかけた。
ぎりぎり、と歯車が止まる。
私は曲がった受け具を外し、工具鞄から予備の金属板を取り出した。穴の位置が合わない。なら、削って合わせる。
がり、がり。
指先が痛い。
でも、急いで適当に留めたら、また外れる。さっき直した郵便局の配達機だって、仮の歯で動かしたあとに自動の留めが噛み合う構造だった。ここにはそんな親切な仕組みはない。
「固定用の爪が必要……」
私は壊れた受け具から、まだ使える小さな爪を切り出した。
板に穴を開け、爪を差し込む。鎖が引かれるほど爪が深く噛む向きに組む。
かちん。
「これなら、一度つながれば勝手には抜けない!」
その瞬間、糸が強く引かれた。
窓の外で、雲が裂ける。
遠くの受取所から、黒い鎖の先端がゆっくり持ち上がった。
「来た!」
ナナセが叫ぶ。
私は鎖を受け具へ通し、最後の留めを打ち込んだ。
がちゃん。
リッカがレバーを離す。
巻き上げ機が低く唸り、切れた帰港線が一本の輪に戻った。
「あと、名前!」
私は銅板を見た。
そこにはまだ、黒い傷しかない。
*
風の管から、小さな紙筒が飛び出した。
ナナセが拾い上げる。中には古い帰港記録の控えと、走り書きの手紙。
『ナナセへ。こっちは無事だ。モグという元気な箱が来た。帰りの風を送る。父より』
ナナセは、泣きそうな顔で笑った。
「父さん、無事だった……!」
私は控えを開いた。
消された銅板の名前は、そこにきちんと残っていた。
『風待ち三番桟橋 帰港線』。
削られた銅板に、その文字を刻み直す。
私の彫刻針が最後の一画を走ると、機械の中心で小さな灯りがともった。
ごうん。
帰港線が張り、沖の船がゆっくりと向きを変えた。
船首が桟橋へ近づく。
あと十歩。
あと五歩。
ごとん。
船が接岸した。
「帰ってきた!」
乗客たちの声が弾ける。最初に降りてきた老人が、子どもの手を引いてナナセに頭を下げた。
「ありがとう。家に帰れるよ」
私はようやく、息を吐いた。
夕鐘が鳴った。
灰色の雲潮は、桟橋のすぐ下を通り過ぎていった。
*
「で、モグは?」
リッカの一言で、私の心臓が跳ねた。
返送管は静かなままだ。
「……戻ってこない」
私は管の入口へ走った。風車は回っている。でも荷物を運ぶ風が、途中で逆流している。
修理が終わった帰港線の力が強すぎて、返送管の風向きまで変わってしまったのだ。
「そんな……!」
私は機械の下を見た。
帰港線の歯車と返送管の風車をつなぐ、小さな切り替え弁。
細い。針があればすぐわかるのに。
私は目を閉じかけて、やめた。
聴けないなら、見よう。
リッカの剣の柄に巻かれた赤い布を借り、弁のそばへ結びつける。風の向きに合わせて布が揺れた。
「ナナセ、荷物の返送口はどっち?」
「左です!」
「じゃあ、この弁を左へ……今!」
リッカがレバーを押し、私は弁を回した。
赤い布が、ぱっと反対側へ翻る。
どんっ!
返送管から、宝箱が飛び出した。
「ただいま帰還! 荷物のお客様だーっ!」
私は反射的にモグを抱きとめた。
「おかえり!」
「うおっ、シオン!? そんなに抱きしめるな! 俺、木箱だからへこむ!」
「へこんでない!」
「心がへこんでる!」
リッカが肩を震わせて笑っている。
ナナセは切符に、二つ目の判を押した。
『返送済』。
「お客様のお荷物、無事にお届けしました」
「だから仲間だってば!」
私は笑いながら、モグのふたをそっとなでた。
道を直す仕事は、誰かを送り出すだけじゃない。
ちゃんと迎えに行くことも、同じくらい大事なんだ。
*
夜。
桟橋の灯りが雲の海に映るころ、モグの底板に浮かぶ地図が、静かに光った。
『第零迷宮への接続、第二関門通過。残りの帰還路:五。』
「あと五つ!」とリッカ。
「順調だな!」とモグ。
「今日、危うく二度と帰れなくなるところだったけどね!」
私は笑ってから、ナナセが渡してくれた帰港記録の控えをもう一度開いた。
記録の裏に、古い荷物の受領印が押されている。
日付は七年前。
品名の欄には、かすれた文字でこうあった。
『帰り道の名前 一件』
差出人の欄は黒く削られていた。
そして、届け先だけが残っていた。
『第零迷宮 裏口管理室』。
「……帰り道の名前って、荷物として送れるものなの?」
リッカが覗き込む。
「さあ。でも、誰かが送った記録はある」
私は紙の端を指でなぞった。
七年前。母がいなくなった年だ。
偶然かもしれない。母の印が本物かどうかさえ、まだわからない。
だから、今は決めつけない。
「この伝票、持っていこう」
「次の道の手掛かり?」
「うん。それと……誰かが帰れなくなった理由の、手掛かりかもしれない」
雲の向こうで、小さな灯りが一つともった。
モグの地図に、次の文字が浮かび上がる。
『第三接続点:眠らない改札。入場条件、帰りたい場所をひとつ申告すること。』
リッカが、にやりと笑った。
「シオン。帰りたい場所、ある?」
私は少し考えた。
工房。師匠のいる町。あの市場。
それから、まだ名前のついていない、この三人の旅。
「……あるよ。いっぱい」
「俺は金具の山!」とモグ。
「それは帰る場所じゃなくて食べ放題会場!」
私たちは笑いながら、次の桟橋へ歩き出した。
その背中を、帰港した船の汽笛が見送ってくれた。
(第003話・了)




