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第001話 宝箱が「助けて」と叫んだ日

「た、助けてええええっ!」


 朝の市場に、宝箱が飛び込んできた。


 金具つきの立派な木箱だ。四本の短い脚をばたつかせ、野菜売りの屋台をくぐり、パン屋の前で盛大に転んだ。


「宝箱が走ってる!」

「宝箱って走るものだったっけ?」

「走らない。普通は」


 そんな人だかりの中、私はしゃがんで箱のふたを開けた。


「おはよう。どこが痛いの?」

「そこはまず『なんで喋るの』って聞くところだろ!」


 箱の内側には、ぎざぎざの歯と、涙目の小さな瞳がついていた。


 魔物のミミックだ。


「喋る箱は珍しくないよ。うちの工房にも一個いるし」

「いるのかよ!」

「昨日、家賃を払わず逃げたけど」

「それは俺じゃないぞ!」


 私は工具鞄から聴診棒を取り出し、箱の側板に当てた。木目の奥で、かすかに鐘のような振動がする。いや、鐘じゃない。歯車が一つ、空回りする音だ。


「……君、迷宮の中から来たね?」


 ミミックの目が丸くなった。


「わかるのか?」

「うん。私はシオン。迷宮修理屋の見習いだから」


 十六歳。国家資格はまだ仮免。得意なのは壁のきしみを聞くこと。苦手なのは早起きと、工房の師匠に見積書を出すこと。


「俺はモグ! 西の迷宮が壊れた! 出口が消えたんだ! 中に人間が六人いる!」


 私は聴診棒をしまった。


「師匠を呼ぼう」

「師匠なら今朝、北の鉱山へ出張したよ」


 背後から声がした。


 振り向くと、赤い髪をひとつに束ねた剣士がパンを二つ抱えて立っている。見覚えはない。なのに、やけに堂々としていた。


「……誰?」

「リッカ。冒険者。迷宮の入口で君を待ってたら、宝箱が町まで逃げてきたから追いかけた」

「待ってた? 私を?」

「修理屋を呼んでこいって言われたからね。君、腰の工具がそれっぽい」


 リッカはパンを一つ差し出した。


「朝ごはん、食べる?」

「食べる」

「じゃ、食べながら走ろう」


 なんて雑な依頼人だ。


 でも、出口の消えた迷宮に六人。しかも師匠は留守。


 私はパンをくわえ、工具鞄の留め金を閉めた。


「仮免だけど、行くよ」

「頼もしい!」

「成功報酬は銀貨三枚」

「急に現実的!」


 こうして、私の初めての単独修理が始まった。


 *


 西の迷宮は、山腹にぽっかり口を開けていた。


 入り口の石柱には『迷宮第十二号・白石回廊』と刻まれている。ここは魔物を倒して宝を奪う場所、というだけじゃない。昔の人が造った、町と町をつなぐ巨大な通路でもある。


 だから、壊れたら直す人間が必要なのだ。


「で、何が壊れたの?」とリッカ。

「出口を指す『帰還針』。迷宮の心臓に刺さってる、長い金属針だよ」

「折れた?」

「音からすると、抜かれた」


 リッカの足が止まる。


「抜いたら、どうなる?」

「出口の場所を迷宮自身が忘れる」

「……それ、誰かがわざと?」


 答えの代わりに、モグが箱のふたを小さく鳴らした。


「俺、見たんだ。黒い手袋の人が、心臓の部屋から出てくるのを」


 入り口の奥で、石壁がごご、と動いた。


 迷宮が寝返りを打ったのだ。


「ちょっと待って。壁って動くの?」

「迷宮だからね」

「説明になってない!」


 リッカが剣を抜く。目の前の通路が三本に分かれ、右と左が入れ替わった。


 私は石壁に手を当てる。


 こつ、こつ、こつ。


 壁の奥を走る歯車の鼓動が聞こえる。乱れている。誰かが帰還針を抜いたせいで、迷宮が同じ道を何度も組み替えている。


「右に行こう」

「右って、今できた方?」

「うん」

「どうしてわかるの?」

「そっちの壁、痛がってるから」


 リッカの呆気にとられた視線を感じる。


「……修理屋ってすごいんだね」

「そう言われると、ちょっと照れる」

「でも迷子になったら責任取ってね」

「取りたくない!」


 走る私たちの後ろで、通路がぱたりと閉じた。


 *


 最初に見つけたのは、倒れた荷車だった。


 その向こうに旅商人が三人、護衛が二人、そして小さな女の子がいた。全員無事。ただし、石壁がじりじりと迫っている。


「修理屋さん?」


 女の子が聞いた。


「うん。名前は?」

「ニナ。お母さんにお土産を届けるの」


 ニナは両腕で小さな紙袋を抱えていた。中身は砂糖菓子らしい。


「絶対、持って帰ろうね」


 私はそう言って、壁の根元を調べた。


 石の隙間に歯車が見える。回っているのに、噛み合っていない。これなら一時的に止められる。


「リッカ、そこの支柱を剣で押さえて!」

「切らなくていいの?」

「切ったら天井が落ちる!」

「危なっ!」


 リッカが剣の腹を差し込み、支柱を押し戻す。私は工具鞄から銅の楔を取り出し、歯車の間に打ち込んだ。


 がちん。


 壁が止まった。


「すごい!」とニナ。


 私は胸を張ろうとして、楔がみしりと鳴るのを聞いた。


「……三分だけね」

「短っ!」


 リッカが叫ぶ。


「三分で全員を外へ?」

「ううん。三分で迷宮の心臓を直す」

「さらに無茶!」


 でも、方法はある。


 心臓の部屋は、壁の鼓動がいちばん大きい場所。すぐ隣だ。


 私は床に耳をつけた。規則正しい震えの中に、一か所だけぽっかりと音のない場所がある。


「モグ、この床板、食べられる?」

「石は腹に悪い!」

「じゃあ金具だけ」

「金具は好物!」


 モグが床板の留め金をがりがり噛み切る。リッカが板を持ち上げると、下に細い階段が現れた。


「行ってくる。みんなを頼むね」

「一人で?」


 リッカが眉を上げた。


「心臓の部屋は狭いから」

「それ、理由になってないよ」


 そう言って、彼女は私の隣に立った。


「私、細身だから入れる。剣も細い」

「その剣、私より長いよ?」

「気持ちの問題!」


 なぜか少しだけ、怖くなくなった。


 *


 階段の先には、巨大な時計のような機械があった。


 天井まで伸びる歯車。床を走る銀色の線。中心には、人の腕ほどの穴が開いている。


 帰還針がない。


「盗まれたんだ」とリッカ。

「うん。でも……変だな」


 私は機械に触れた。


 針が抜かれただけなら、迷宮は出口を忘れて眠るはずだ。なのに今は、苦しそうに道を動かし続けている。


 穴の奥をのぞくと、黒い砂が詰め込まれていた。


「誰かが、わざと壊れ続けるようにしたんだ」


 黒い砂をかき出す。すると心臓の奥から、金属の細い爪が現れた。帰還針を固定する受け具だ。


 針さえあれば、出口は戻る。


 だけど、予備の針は工房にしかない。


 私の手元にあるのは、師匠から預かった一本の銀色の工具だけだった。


 先端が細く、長さもちょうど同じ。


 見習いになった日に師匠がくれた『道聴きの針』。壁の声を聞くための、私のいちばん大事な道具だ。


「それ、使えるの?」とリッカ。

「一度刺したら、抜けなくなると思う」

「じゃあ、君の仕事道具がなくなる」

「うん」


 床の上から、ニナの声がかすかに聞こえた。


「お母さん、待ってるかな……」


 私は道聴きの針を握り直した。


 師匠は言っていた。


『修理屋は、道具を守る仕事じゃない。誰かが帰る道を守る仕事だ』


「……じゃあ、使うしかないよね」


 針を差し込む。


 かちり。


 機械が、一拍だけ静かになった。


 それから迷宮全体が、長い息を吐いた。


 壁の向こうで、石が開く音がする。


「出口、戻った!」


 リッカが私の手を引いた。


「帰ろう、修理屋!」


 *


 六人全員が地上へ出たころ、太陽はちょうど山の上に顔を出していた。


 ニナは砂糖菓子の袋を抱えたまま、私に駆け寄った。


「ありがとう、シオンお姉ちゃん!」

「どういたしまして。お母さんによろしくね」


 リッカは、依頼人たちから集めた銀貨を私の手に載せた。


「はい、成功報酬。三枚」

「やった!」

「あと、私の朝ごはん代が二枚」

「高くない!?」

「冗談だよ。……半分だけ」

「半分って何!?」


 モグが足元で、がたがたと笑った。


 私は笑いながら工具鞄を閉めようとして、ふと手を止めた。


 道聴きの針は、もうない。


 これからは壁の声を聞けない。少なくとも、あの針なしでは。


「シオン」


 リッカが私の顔をのぞき込む。


「失くしたもの、取り戻したい?」

「そりゃ、もちろん」

「じゃあ一緒に探そう。世界は広いし、変な迷宮もいっぱいある」


 そのとき、モグが妙な声を上げた。


「なあ。俺の中、なんか光ってる」


 ふたを開けると、モグの底板に銀色の線が浮かんでいた。さっきまでなかったはずの、細かな地図だ。


 山、川、町。知っている地形のずっと先に、地図には載っていない白い空白がある。


 その空白の真ん中に、文字が一行。


『第零迷宮 帰還路、起動待機中』


「第零迷宮……?」


 私は息をのんだ。


 迷宮には番号がある。第一号から始まって、今では何百も。


 でも、零番なんて聞いたことがない。


 さらに、地図の端に小さな印があった。


 工房の師匠が昔、私にだけ教えてくれた印。


 七年前、行方不明になった私の母が使っていた、修理屋の署名だった。


「……母さん?」


 風が吹く。


 リッカは地図をのぞき込み、にやりと笑った。


「決まりだね。次の行き先」

「勝手に決めないでよ」

「嫌?」


 私は地図の白い空白を見つめた。


 知らない道。知らない迷宮。そこにいるかもしれない、大切な人。


 怖い。ものすごく怖い。


 でも、それ以上に、胸が高鳴っていた。


「……嫌じゃない」


 リッカが拳を差し出す。


「じゃあ、よろしく。修理屋シオン」


 私はその拳に、こつんと自分の拳を当てた。


「よろしく、冒険者リッカ。あと、モグも」

「俺、仲間に数えていいの!?」

「金具を食べる係が必要だから」

「役職が雑!」


 私たちは笑った。


 その足元で、モグの地図に新しい一本の線が伸びていく。


 地図の上では、それは道に見えた。


 けれど現実の空には、雲の向こうへ続く、細い石の階段が一段だけ浮かんでいた。


 世界の裏口は、どうやら本当に存在するらしい。


(第001話・了)

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