第8話 泥だらけのバグ
非常ベルは鳴らなかった。
源寺がセキュリティシステムに「誤作動」の信号を送り続けているおかげだ。俺たちは白衣のアンドロイドたちを突き飛ばし、業務用エレベーターへと駆け込んだ。
「最上階、VIPスイートだ!」
源寺が操作パネルに端末を接続し、プロテクトを強引に解除する。
エレベーターが唸りを上げて急上昇を始めた。
ガラス張りの壁の向こうに、ネオ台場の全景が広がる。
煌びやかな摩天楼。優雅に泳ぐ飛行船。
眼下に見えるスラム街――俺たちが住む町は、黒い霧に覆われて何も見えない。
「……高いな」
俺はガラスに唾を吐きかけたくなった。
あんなドブ底で、俺たちが必死に作った部品やエネルギーが、このふざけた楽園を支えている。
そして今、俺の息子の体まで、こいつらの「永遠の命」のために消費されようとしている。
『警告。ID認証エラー。不審物を検知しました』
無機質なアナウンスと共に、エレベーターの天井から黒い球体が降りてきた。
警備ドローンだ。赤いレーザーが俺の眉間を捉える。
「チッ、見つかったか! 鉄、伏せろ!」
源寺が叫ぶが、俺は動かなかった。
機械なら、見飽きている。
俺は毎日、唸りを上げる巨大な輪転機の懐に入り込み、インクと油にまみれて機嫌を取ってきた。
秒速で紙を吐き出すあの怪物に比べれば、このドローンの動きなんて止まって見える。
どんなに高価なハイテク機械だろうが、動くためには必ず「急所」がある。
俺はポケットからカッターナイフを引き抜き、刃を最大まで繰り出した。 ドローンがスタンガンを撃とうとアームを広げた――その一瞬の隙だ。
ヒュッ。
俺はドローンの「関節」の隙間に、カッターの刃を突き立てた。
装甲の上からじゃない。可動部のわずかな隙間、センサーケーブルが通っている一点を狙って、刃をねじ込み、横に引いたのだ。
バチバチッ!
火花が散り、ドローンが痙攣して床に落ちた。
「……おいおい、マジかよ」
源寺が呆れたように口を開けている。
「最新鋭の自律兵器だぞ? カッター一本で機能停止させやがった」
「高速回転するローラーの隙間から、紙詰まりを掻き出すのに比べれば楽なもんだ。配線を一本切ればただの鉄クズだよ」
俺は折れたカッターの刃を捨て、新しい刃をカチリと出した。
武器なんていらない。
俺には、現場で培った「目」と「手」がある。
『最上階に到着しました』
扉が開く。
そこには、これまでとは空気が違う、重厚なマホガニーの扉があった。
扉の上にあるランプは、無情な「赤色(オペ中)」を灯している。
俺は作業着の油を拭うこともせず、その高級な扉に手をかけた。
「待ってろ、翔太。今、親父がへその緒を切りに行ってやる」
俺はドアノブを回した。
天国への、最悪の殴り込みだ。
続く




