第59話 エリートの意地と静かな別れ
地下室に響いていた泣き声が、ゆっくりと静かに収まっていった。
翔太は疲れ果てたように、由美の膝に頭を預けて眠っている。
その顔は、もう冷たい機械なんかじゃない。七年前のあの日と同じ、安らかな息子の寝顔だった。
「……終わったな」
源寺が、血まみれの手をタオルの端で拭いながら大きく息を吐いた。
俺はふらつく足で立ち上がり、部屋の隅へ向かった。
そこには、泥と血でドロドロになった高級スーツを着た神崎が、壁に背を預けて座り込んでいた。
かつて俺たちをゴミのように見下していた最高幹部の姿は、もうどこにもない。
「……何を見ている。お前たちの勝ちだ。アリスの最高傑作は、見事に泥まみれのガキに上書きされたよ」
神崎が、自嘲するように鼻で笑った。
俺はそいつの隣に、ドカッと腰を下ろした。
「神崎。お前、これからどうする?」
「……」
「行くアテがねえなら、ここにいてもいいぞ。源寺も、こき使う下っ端が欲しそうだったしな」
俺の言葉に、神崎は顔をしかめて鼻を鳴らした。
「冗談じゃない。私を切り捨てたアリスに戻る気はないが、こんな泥水のような場所にいつまでもいるつもりもない」
神崎はよろけながら立ち上がり、汚れきったスーツのシワを、エリートの意地を見せつけるようにパンパンと払った。
「私ほどの頭脳と技術だ。裏社会を探せば、私を大金で雇う組織などいくらでもある」
「……そりゃそうだな」
強がりだと分かっていたが、俺は笑って頷いた。
こいつは最後まで、俺たちとは違う世界の人間だ。それでいい。
「ありがとうな、神崎」
俺が静かにそう告げると、神崎の背中がピクリと揺れた。
振り返ることはなかった。
何も言わず、神崎は足を引きずりながら、地下室の重たい鉄扉を開けた。
外から吹き込んできた夜風が、冷たかった地下室の空気を少しだけ入れ替える。
神崎の姿は、そのままスラムの深い暗闇の中へと、静かに溶けて消えていった。
「……鉄。追っ手は完全にまいたし、システムも書き換えた。アリスも当分、手出しはできねえよ」
源寺が、タバコに火をつけながら言った。
「ああ。俺たちの『奪い返す戦い』は、これで終わりだ」
俺は振り返り、眠る息子と、それを優しく撫でる由美の姿を見つめた。
スラムの冷たいコンクリートの壁の向こうで、少しずつ、夜が明けようとしていた。
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