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第58話 痛みの記憶と、泥だらけの涙


「ターゲット……排除……!」


 無機質な声とともに、息子の太い指が俺の首に深く食い込む。  


 ミシミシと気管が潰れる音がした。AIの戦闘データが、翔太の肉体を冷徹な殺人マシーンに変え、親父の息の根を止めようとしている。


 だが、俺を殺そうとするその両目からは、怯えた子供のような涙がボロボロとこぼれ落ちていた。


 デジタルと生身が混ざり合い、息子の心が引き裂かれようとしている。


 理屈や言葉じゃ、もうこの暴走は止められねえ。




「ふざけんな……ッ!」  


 俺は一切の防御を捨てた。  


 格闘の型も、急所を避ける動きもない。


 AIの計算には絶対に存在しない『スラムの喧嘩』だ。


 ノーガードで息子の懐に飛び込み、その硬い顔面に向かって、渾身の力で頭突きを食らわせた。


 ゴツンッ!!  


 鈍い音が響き、俺の額が割れて血が吹き出す。


「あ……?」  


 計算外のダメージと痛みに、シオンとしての完璧な動きが一瞬だけ停止した。  


 俺はその隙に、血まみれの顔のまま、二十歳のデカい体を力いっぱい抱きしめた。




「思い出せッ!!」  


 俺は息子の耳元で、血を吐きながら怒鳴った。


「AIなんかに、親父に殴られた痛みが計算できるか! 悪いことして俺にブン殴られて、鼻血出しながら泣いて食った、母ちゃんの飯の味を機械が覚えてるかッ!」


「翔太……翔太……っ!」  


 背後から、由美が息子の広い背中にしがみつく。


「帰ってきなさい! 雨の日は雷が怖くて、いつも私の布団に潜り込んできたじゃない! 焦げた肉の端っこが好きで、いつもお父さんと取り合ってたじゃないッ……!」  




 由美の温かい涙が、息子の服に染み込み、肌へと伝わっていく。


「シ、シオン……システム……ちが……」  


 翔太の体が、ガタガタと激しく震え出した。


 俺の血の生臭い匂い。  


 親父の頭突きの、骨の芯まで響くような痛み。  


 背中を包み込む、母ちゃんの涙の熱。


 どれだけアリスが完璧なデータを用意しようが、肉体に刻み込まれた『泥臭い記憶』を上書きすることなんてできねえ。


 冷たいデジタルの壁を、三人の熱が強引に溶かし、焼き尽くしていく。


「あ……あぁ……っ」  


 翔太の喉から、獣のようなうめき声が漏れた。  


 俺の首を締め上げていた太い腕が、ゆっくりと、力なく下ろされる。  


 焦点の合っていなかった瞳から、AIの冷たい光が完全に消え去った。


 代わりに、大粒の温かい涙が、泥で汚れた頬を伝ってとめどなく溢れ出した。




「とーちゃん……かーちゃん……っ」  


 しわがれた、二十歳の男の低い声。  


 だが、顔をくしゃくしゃにして泣きじゃくるその表情は、七年前にアリスに奪われたあの日の、十二歳の翔太のままだった。


「……痛ぇよ。父ちゃんの頭突き……すげえ痛ぇよ……」


「……馬鹿野郎が。遅えんだよ」  


 俺は嗚咽を漏らし、大きな体を抱きしめる腕に、さらに力を込めた。


 由美も声を上げて泣きながら、俺たち二人にしがみつく。


 スラムの冷たい地下室に、家族三人の不格好な泣き声だけが、いつまでも、いつまでも響き渡っていた。





続く

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