第54話 凍てついた首と復讐の契約
光の届かない地下の配管通路は、まさに地獄だった。
腰まで腰まで浸かるヘドロは氷のように冷たく、腐ったメタンガスの悪臭が肺を焼く。
「ゼェ……ハァ……ッ」
一歩足を踏み出すたびに、折れた肋骨が軋み、目の前が真っ白になる。
背中に負った二十歳の息子の肉体は、時間が経つごとに鉛のように重さを増していた。
「ひぃッ……ね、ネズミが……! 汚い、嫌だ、私をここから出せッ!」
「うるせえ、少しは自分で歩きやがれ!」
泥水の中で転んだ神崎を、源寺が容赦なく蹴り飛ばして引きずり起こす。
高級スーツはドブの匂いに染まり、エリートの面影は完全に消え失せていた。
「鉄さん、代わるわ。少し休んで」
由美が泥だらけの手で俺の肩を支えようとするが、俺は首を横に振った。
「いや、いい……。こいつは、俺が連れて帰る。親父の……意地だ」
感覚のなくなった足を引きずり、泥水を掻き分けてひたすら奥へ進む。
どれだけ歩いたか分からない。永遠にも思える暗闇の行軍の果てに、ようやく源寺が重たい鉄扉の前に立ち止まった。
「……着いたぞ。俺のアジトの、さらに地下だ」
重い扉を開けると、機械油とカビの匂いが染み付いた空間が広がっていた。
部屋の奥で、低い駆動音を立てている旧式の冷凍カプセル。
分厚いガラス越しに白い冷気が渦巻く中、俺たちの「本当の息子」が眠っていた。
七年前、十二歳のあの日から時が止まったままの、小さな翔太の首だ。
俺は、背負ってきた重たい肉体を、手術台代わりの冷たい鉄板の上にそっと下ろした。
そして、ガラスにこびりついた霜を、泥だらけの手でゆっくりと拭い去る。
「翔太……お前の体が、やっと帰ってきたぞ。今、繋いでやるから待ってろ」
震える由美が、俺の隣で声を出さずに泣き崩れた。
俺はカプセルから振り返り、部屋の隅でへたり込んでいる神崎を睨みつけた。
「源寺、準備はいいか?」
「神経の縫合と血管の接続は俺の腕でどうにでもなる。だがな、鉄。問題はアリスの『防衛システム』だ」
源寺が血まみれのスパナを放り投げ、メスと溶接機が並んだトレイを引き寄せる。
「Sランクの肉体は、登録されたAI以外の脳信号を異物とみなす。無理やり生身の脳を繋げば、強烈な拒絶反応で脳髄が焼き切れるぞ。……システムを書き換える『マスターコード』が要る」
俺は無言で歩み寄り、震える神崎の胸ぐらを鷲掴みにして引きずり起こした。
「聞いただろ?…元・最高幹部様。お前の頭ん中に入ってるコードを出せ」
「ふ、ふざけるなッ! アリスの最高機密だぞ! お前らみたいなゴミ共に、完璧な作品を渡してたまるか……!」
エリートのちっぽけなプライドにしがみつき、神崎が唾を飛ばして喚く。
俺はそいつの顔面を、渾身の力で殴り飛ばした。
「……目を覚ませ、クズが。お前はもう、俺たちと同じゴミだ」
床に転がり、鼻血を吹く神崎を見下ろす。
「アリスはお前を捨てた。お前が心血注いだシステムは、お前をトカゲの尻尾にして燃やそうとしたんだよ。……悔しくねえのか、あー?」
神崎の動きが止まった。
俺は、そいつの耳元で悪魔のように囁いた。
「お前を捨てた完璧なシステムに、俺たちと一緒に泥を塗ってやろうぜ。Sランクの最高傑作に、スラムのガキの脳みそを上書きして、アリスの連中に最高のツラをさせてやるんだよ」
神崎の肩が、小刻みに震え出した。
恐怖じゃない。それは、全てを奪われた男の、底なしの憎悪だった。
「……あ、あはは……ハハハハッ!!」
泥と血にまみれたエリートが、壊れたように笑い出す。
「いいだろう……。私を切り捨てたあのクソシステムを、私の手で台無しにしてやるッ…!」
親の執念と、エリートの復讐心。
絶対に交わるはずのない二つの感情が、薄暗い地下室で一つになった。
続く




