第51話 生きた鍵と上級市民の逃げ道
アリス本社の最上階に、鼓膜を裂くような赤い警報音が鳴り響いていた。
「鉄、急げ! 階段からもエレベーターからも、私兵の足音が上がってきやがる!」
気絶した神崎を担いだ源寺が、血まみれの顔を歪ませて怒鳴る。
「分かってるッ……!」
俺は歯を食いしばり、腕の中の二十歳の肉体を抱え直した。
重い。ただでさえ折れたあばら骨が悲鳴を上げているのに、力なく脱力した大人の体は、鉛のように腕に食い込んでくる。だが、絶対に落とさねえ。
通路の奥から、武装したアリスの警備部隊の黒い影がいくつも迫ってくるのが見えた。まともに撃ち合えば、一瞬で肉片にされる。
「源寺さん、そのクズを床に下ろして」
通路の行き止まり、分厚い鋼鉄の壁の前で、由美が冷たい声で言った。
源寺が神崎を乱暴に床へ放り投げる。
由美は迷わず、神崎の側頭部にある生々しい傷口に、軍靴のつま先を容赦なくねじ込んだ。
「ぎゃあぁぁぁッ!?」
激痛に脳を揺さぶられ、気絶していた神崎がカエルのように跳ね起きた。
「起きなさい。あんたたち上級市民が、暴動から逃げるために作ったVIP用の隠し通路がこの壁にあるはずよ。今すぐ開けなさい」
「ひ、ひぃッ……!」
由美は神崎の髪を鷲掴みにして壁に顔を押し付け、その首筋に再び血塗れのナイフを突き立てた。
「暗証番号じゃないわね。生体認証でしょ。……少しでも手間取ったら、右目から順番にくり抜いて、壁のセンサーに直接こすりつけるわよ」
「あ、開ける! 開けるからッ!」
神崎は股間を濡らし、ガチガチと歯を鳴らしながら壁の一部に手を触れた。
大理石の壁がスライドし、隠された虹彩スキャナーが姿を現す。
神崎が震える右目をそこへ近づけると、ピピッという無機質な電子音と共に、重厚な鋼鉄の壁が音もなく左右に割れた。
現れたのは、地下駐車場まで一直線に繋がる、広くて清潔な専用のシースルー・エレベーターだ。
「乗るぞ!」
俺が息子の体を抱えて飛び込むのと同時に、背後の通路で銃声が轟いた。
バラバラッと火花が散り、壁の破片が俺の頬を掠める。
「ヒィッ! 撃つな、私がいるぞ!!」
源寺に首根っこを掴まれて引きずり込まれた神崎が、無様な悲鳴を上げる。
由美がすかさず操作パネルの『地下最下層』のボタンを血まみれの手で叩き、エレベーターの扉が閉まった。
分厚い防弾ガラスの向こうで、私兵たちが銃を構えたまま悔しそうにこちらを睨みつけている。
エレベーターが、胃が浮き上がるような猛スピードで地下へと下降し始めた。
「……はぁ、はぁ、はぁ……」
密室の中で、俺たちの荒い息遣いと、神崎のすすり泣く声だけが響く。
俺は腕の中の息子を見下ろした。
このまま地下駐車場を抜け、源寺のアジトまで辿り着けば……ついに、こいつを本当の「翔太」に戻せる。
親父の血で汚れたこの腕に、あと少しだけ力を込めた。
続く




