第48話 他人の名で動く肉体と、血塗れの防戦
「ひっ……!」
由美のナイフが首の皮一枚を裂き、神崎の喉から情けない悲鳴が漏れた。
先ほどまでの高笑いは完全に消え失せ、床に這いつくばったエリートの顔は恐怖で青ざめている。
「おい、偽物の親玉」
俺は丸鋸の電源を切ったまま、怯えるAIの夫婦を睨みつけた。
「このクズの命が惜しければ、お前らの『息子』に手出しをやめさせろ」
だが、AIの妻は首を横に振った。
精巧な人工皮膚の顔を歪ませ、瞳からボロボロと液体を流しながら、血走った目で俺たちを睨み返してきたのだ。
「嘘よ……あなたたち、この子を連れ去りに来たんでしょう? だめ、この子は私たちの息子よ! 誰にも渡さないわ!」
「そうだ! テロリストめ、私たちの家族を壊させはしない!」
AIの夫が叫ぶ。
神崎の命など、こいつらには知ったことではなかった。
プログラムされた脳にあるのは、国から買い取った『息子』を失う恐怖だけだ。
「シオン! そいつらを殺して!」
――シオン。
AI夫婦の口から放たれたその名前に。
俺たちの翔太の体が、一瞬のためらいもなく地を蹴った。
視界が揺れた。
俺の腹に、重たくて硬い衝撃がめり込む。
遅れて、折れかけていた肋骨が完全に砕ける嫌な音が、耳の奥で響いた。
「がッ……」
胃液が込み上げ、俺はたまらず大理石の床に膝をついた。
転げ落ちた丸鋸が嫌な音を立てる。
俺のみぞおちに拳をねじ込んだのは、紛れもなく翔太の体だった。
無表情な機械の頭部。
だが、その拳の握り方も、体重の乗せ方も、スラムの裏路地で俺が叩き込んだ喧嘩殺法そのものだ。
「てめえら、卑怯だぞッ!」
源寺が怒号を上げ、血まみれのスパナを振り上げて飛び出そうとする。
「やめろ源寺! そいつに傷をつけるな!」
俺は血と胃液が混ざった唾を吐き捨てながら、必死で怒鳴った。
翔太の体が、無言のまま再び俺の顔面を蹴り上げてくる。
避けることはできた。だが、よければ息子の足が後ろの壁や機材にぶつかる。
俺は両腕を交差させ、その重たい蹴りをモロに受け止めた。
腕の骨がミシミシと軋む。靴底の泥と、微かな雨の匂いが鼻を掠めた。
はだけた純白の軍服の襟元から、鎖骨の星形の痣がハッキリと見える。
「……くく、ハハッ」
由美に踏みつけられ、首から血を流しながら、神崎がかすれた声でわらった。
「見ろよ……私の命令なんか、最初から必要ない。あの体はもう完全に……『シオン』なんだよ」
「鉄さんッ!」
由美が悲痛な声を上げ、神崎の首に刃を押し当てたまま震えている。
容赦のない拳が、次々と俺の体に叩き込まれる。
手を出せば、翔太の体を傷つけちまう。
俺はただ、歯を食いしばってガードを固め、息子の拳の重さを一つ一つ全身で受け止めるしかなかった。
七年だ。
こんなに重たい拳を振るえるようになるまで、こいつはどれだけ飯を食い、どれだけ走り回り、どれだけこの偽物の親たちと笑い合ってきたんだ。
腹が立つほど、立派な体に育っていやがる。
「……もっと、腰を入れろ」
血まみれの口元を歪ませ、俺は目の前の機械の頭部に向かって低く笑った。
「親父を殴るなら、もっと本気でこい。俺の教えた通りにな」
大理石の床に俺の血がポタポタと落ちる。
勝ち目のない、泥沼の防戦。
だが、この拳の痛みが、今はどうしようもなく愛おしかった。
続く




