第47話 狂犬の偽りき涙と、引き寄せられた神崎の喉元
カラン、と。
乾いた音を立てて、由美の手から血塗られた軍用短刀が床に滑り落ちた。
「……ああ、翔太」
由美は両手で顔を覆い、糸が切れた操り人形のように、その場に力なく膝から崩れ落ちた。
愛する息子の体を前にして、ついに母親の心が完全に折れてしまった。
誰の目にもそう映る、痛々しくも絶望的な姿だった。
「くくっ……ハハハハハ!」
その光景を見た神崎が、歓喜に顔を歪ませて下品な高笑いを上げた。
「素晴らしい! アリスの特殊部隊さえ震え上がらせた『荒川の由美』も、我が子の姿を前にはただの無力な雌犬に成り下がる! これだ、この絶望の顔が見たかったんだ!」
神崎は勝利を確信し、油断しきった足取りで翔太の体とAI夫婦の横を通り抜け、俺たちの方へ一歩、二歩と歩み寄ってきた。
「さて、次は『狂犬』の旦那。あなたの番――」
神崎が言葉を言い終わるより、一瞬早く。
顔を覆っていた由美の手が、まるで弾かれたように動いた。
その瞳には、涙など一滴も浮かんでいない。あるのは、獲物を狩るための絶対的な殺意だけだった。
「なっ――?」
由美の手首から、細く鋭い銀色の線が放たれた。
裏社会を生き抜くために彼女が愛用していた、鋼のように頑丈な特殊な『釣り糸』だ。
先端に重りのついたその透明な牙は、俺の横をすり抜け、宙を這う蛇のように神崎の足元へ一直線に飛んだ。
シュガッ!
「……え?」
神崎の足首に、釣り糸が何重にも巻き付く。
由美が床に膝をついた低い姿勢のまま、両腕の筋肉を爆発させて、その糸を力任せに手繰り寄せた。
「ぐぎゃあっ!?」
見事に足をすくわれた神崎は、無様な悲鳴を上げて大理石の床に仰向けに転倒した。
由美はさらに糸を強く引き、床に倒れた神崎をルアーのように自分の方へと一気に引きずり寄せる。
「神崎さん!」
背後でAI夫婦が叫び、翔太の体が動こうとした。だが、遅い。
神崎の体が由美の足元まで引きずり出された瞬間、由美は落としていた軍用短刀を拾い上げ、馬乗りになって神崎の喉仏にその冷たい切っ先を突き立てた。
ほんの数ミリ、刃が皮膚に食い込み、神崎の首筋から一筋の赤い血が流れる。
「……動くな」
地獄の底から響くような、由美の低くドスを効かせた声が部屋を支配した。
「一歩でも動けば、この男の首の動脈を掻き切るわ。翔太の体に、指一本でも触れてみなさい。この男を肉片に変えてやる」
先ほどまでの高笑いはどこへやら、喉元に刃を突きつけられた神崎は、顔面を蒼白にしてヒィヒィと情けない声を漏らしている。
由美は神崎の髪を掴んで強引に上体を起こさせ、人質として俺たちの前に立たせた。
「さあ、神崎。あんたの負けよ」
母親の涙という最大の騙し討ちで、狂犬は一瞬にして盤面をひっくり返したのだ。
続く




