第40話 涙の裏切りと親父たちの悲しき天秤
息の詰まるような排気ダクトを抜け、案内人の男が震える手で壁の端末に暗証番号を打ち込む。
重い電子音が鳴り、中層管理区画へと続く分厚い扉がゆっくりと開いた。
だが、そこに広がっていたのは安全な通路ではなかった。
カチッ、カチッという無数の冷たい金属音。
強烈な照明が点灯し、暗闇から数十個の赤外線レーザーが俺たちの胸元を捉えた。
完全武装したアリスの私兵部隊が、半円状の完璧な包囲陣を敷いて銃口を向けている。
「……罠か?」
由美が低く唸り、黒い皮のコートの内で拳銃を握り直すより早く。
案内人の男が、俺たちの足元へ崩れ落ちた。
「……すまない、本当にすまないッ!」
男は油まみれの床に額を擦りつけ、声を上げて号泣し始めた。
「神崎に脅されていたんだ! お前たちをこの罠に誘導しなければ、娘のアンアを……俺のたった一人の娘を、あの脳髄の実験台にするって……!」
スピーカーから、神崎の無機質な声が響く。
『よくやりましたよ、底辺のネズミさん。これで貴方の娘の命は保証しましょう』
俺は、丸鋸を握る手が震えるのを感じた。
怒りではない。
同じように子供を愛する親父が、別の親を売らなければ娘を守れないという、この理不尽な天秤に対する底知れぬ絶望だった。
由美が、冷たい目で男を見下ろす。
皮のコートが、ギリッと鋭く軋んだ。
「……アンナちゃんって言うのね。可愛い名前じゃない」
由美の銃口が、床で泣き崩れる男の頭に向けられた。
「由美! やめろ!」
俺が叫んだ瞬間、由美は銃口をスッと逸らし、包囲する完全武装の兵士たちのど真ん中へ向けた。
「あんたの裏切りは正解よ。親なら、他人のガキより自分の娘を選ぶのが当たり前だわ。……だから、顔を上げなさい」
狂犬の瞳に、静かな、だが決して消えない怒りの炎が灯る。
「あんたの娘の命を天秤にかけたあのクソ野郎どもを、これから私が全員ミンチにしてやるから」
由美は男を庇うように一歩前へ出ると、横に立つ俺へ身を寄せた。
誰の耳にも届かない、掠れた小さな声だった。
「あなた、……弾は、あと一発しか残ってないわ」
その言葉は、俺の心臓を重く締め付けた。
俺は表情一つ変えず、丸鋸の柄を強く握り直した。
視線は包囲する兵士たちに向けたまま、小声で応える。
「……由美。あいつらの左横を、よく見ろ。あそこは太いガス管が通ってる。」
鉄の視線の先――数十人の兵士たちのすぐ左側の壁沿いに、天井から床へと続く古びたガス管が通っていた。
「その一発で、必ず仕留めろ。爆風に紛れて、俺たちが突っ込む」
由美は、微かに、だが力強く頷いた。
二人の小声の会話に気づくことなく、源寺は工具袋から巨大で無骨な『鉄製のスパナ』を取り出した。
印刷機の解体で使い古され、そのスパナを両手で構え、源寺は血だらけの顔で笑う。
「へっ、接着剤も爆薬もねえが、道を開けるのは俺の仕事だ。……鉄屑より、人間の方が、このスパナで殴りがいがあるぜ!」
案内人の男はまだ床で泣き崩れている。
俺は大きく息を吐き、痛む肋骨を無視して丸鋸の回転スイッチを入れた。
一発の弾丸と、一本のスパナ、そして一台の丸鋸。それが、地獄から這い上がるための、唯一の道具だ。
神崎の嗤い声が、再びスピーカーから響き渡る。
『さて、底辺のネズミどもの、最期の悪足掻きを見せてもらいましょうか』
その言葉を、俺たちは無言で聞き流した。
視線の先には、由美のリボルバーの銃口があった。
狙うは左の壁。剥き出しになった、太いガス管。
由美は、自身の呼吸さえも止めた。
指先に全神経を集中させ、ゆっくりと、だが迷いなく、最後の一発の引き金を絞り込む。
――カチッ。
撃鉄が落ち、静寂を切り裂く轟音が、中層区画の空気を激しく震わせた。
その銃声を合図に、俺と源寺は猛然と、敵陣のど真ん中へと躍り出た。
続く




