第34話 血の匂いと目覚めた三人目
分厚い鉛の扉が開き、冷たい雨の匂いと共に、黒い革のコートを着た由美がシェルターに滑り込んできた。
「あなた、源寺さん……! 薬よ!」
息を切らした由美が、泥だらけの紙袋を床に放り投げる。
俺は痛む体を壁に預けたまま、彼女が無事に帰ってきたことに、安堵で深く息を吐き出した。
「ゲホッ……由美さん、マジで手に入れてきやがったのか……」
高熱で顔を真っ赤にした源寺が、震える手で紙袋の中身を取り出す。
だが、軍用の抗生物質の瓶と、厳重なケースに入った『旧式だが極めて高精度な通信基盤』を見た瞬間、源寺の目が信じられないものを見るように見開かれた。
「おいおい……嘘だろ。由美さん、これ……」
源寺は基盤を持つ手をワナワナと震わせ、由美と俺を交互に見比べた。
「この基盤、スラムの闇市でも一番奥の、ヤバい組織が仕切ってるシマにしか出回らねえ代物だぞ。金を出して買えるようなもんじゃねえ。……一体、どうやってこれを?」
「……少し、交渉しただけよ」
由美は平然とした声で答えながら、革のコートの袖口に微かに飛んでいた『赤い血痕』を、親指で無造作に拭い取った。
その一切の躊躇がない冷酷な手つきを見て、裏社会に生きる源寺は完全に息を呑み、言葉を失った。
俺は奥歯を強く噛み締めた。
由美が、俺と出会う前にスラムの底辺で「荒川の由美」と恐れられていた札付きの不良だったことは知っている。
俺は彼女に、二度とその血塗られた手を使わせないと誓ったはずだった。
だが、俺の不甲斐なさが、愛する妻に再びあの『狂犬の皮』を被らせてしまったのだ。
「……すまねえ、由美」
俺が絞り出すように言うと、由美はいつもの優しい母親の顔に戻り、俺の泥だらけの頬にそっと手を添えた。
「謝らないで、あなた。翔太を取り戻すためなら……私は、悪魔にだってなるわ」
その言葉の重みに、俺たちの間に言葉は必要なかった。
源寺は何かを悟ったように小さく笑うと、由美が命がけで奪い取ってきた抗生物質を俺と自分の首筋に注射し、残された力を振り絞って工具を手に取った。
「……ハッ、こりゃあ俺もうかうか寝てられねえな。鉄、お前んとこの由美さん、お前よりよっぽど肝が据わってやがる。これだけの極上品がありゃ、アリスの分厚い防衛網の通信くらい、すぐに傍受して『耳』を作れるぜ」
高熱が引き始め、抗生物質が血液を駆け巡るのを感じながら、俺は傍らに転がる丸鋸を見つめた。
ハッキングデバイスは失った。だが、俺たちにはまだ、泥水をすすってでも家族を取り戻すという『異常な執念』がある。
腕利きの裏技術者、鋼鉄を斬り裂く職人、そして、愛のために再び牙を剥いたスラムの狂犬。
冷たい鉛のシェルターの底で、アリス本社の喉首を喰い破るための、最狂の三人が揃ったのだ。
続く




