第33話 母の皮を破る狂犬
「金が足りねえなら、その体で払ってもらうしかねえなぁ……」
「おい、この女を裏へ連れて行け」
売人の男が下劣な笑みを浮かべ、ゴロツキの一人が由美の腕を乱暴に掴み上げた。
ギュッ――。
雨を弾く黒い革のコートが、鈍く冷たい音を立てて軋んだ。
それが、惨劇の合図だった。
「……ぁ?」
ゴロツキが間抜けな声を漏らした瞬間、由美の体がブレた。
一切の躊躇も予備動作もない。彼女は掴まれた腕を軸にして体を捻ると、男の膝関節の真横に、全体重を乗せた踵を無慈悲に叩き込んだ。
バキィッ!!
「ぎゃああああッ!?」
くの字に折れ曲がってはいけない方向へ膝が砕け、男が絶叫を上げて泥水に崩れ落ちる。
「な、何しやがるこのアマ!!」
残りの二人が慌てて鉄パイプを抜こうとしたが、遅すぎた。
由美は倒れ込んだ男の背中を無造作に踏みつけ、皮のコートのポケットから、あの『旧式のリボルバー』を抜き放っていた。
カチャリ、と撃鉄を起こす冷たい音が、路地裏の時間を完全に凍りつかせる。
「……汚い手で触るな。殺すぞ」
地を這うような低い声。
由美は怯えて後ずさる売人の顔面に銃口を突きつけ、そのまま眼球の数ミリ手前まで冷たい鉄の筒を押し当てた。
さっきまで震えて頭を下げていた『優しい母親』の面影は、微塵も残っていない。
その瞳に宿っているのは、飢えた獣のような本物の殺気だけだ。
「女が一人でこんな掃き溜めに来るってことが、どういう意味か分からないの? 私は今、家族の命がかかってて……最高に機嫌が悪いのよ。次その汚い口を開いたら、脳みそをこの路地裏にぶちまけるわよ」
その常軌を逸した「捨て身の狂気」に、用心棒の一人――顔に古い傷跡がある年配の男が、ハッと息を呑んで顔を引きつらせた。
「お、お前、名前は?」
「私の名前は由美、それがどうした?」
「お、おい……嘘だろ、お前……まさか、あの『荒川の由美』か……!?」
その名が出た瞬間、路地裏の空気が完全に絶望へと変わった。
スラムの不良どもなら誰もが知る、かつてこの界隈を血の海に変えた札付きの狂犬。
「……その名前で呼ぶな。私はもう、ただの印刷屋の女将だ」
由美は冷酷に吐き捨てると、失禁して震え上がる売人の懐から、抗生物質の瓶と、源寺が指定した通信基盤のケースを力ずくで奪い取った。
「代金は、さっきので足りるわね。……何か文句ある?」
「ひ、ひぃぃッ! もってけ、全部持ってけ!!」
売人が泣き叫ぶのを背に、由美はリボルバーを懐にしまい、再び黒い革のコートを翻した。
胸の奥で暴れ回りそうになる「昔の血」を必死に押さえ込みながら、彼女は愛する夫と、守るべき息子が待つ鉛のシェルターへと、足早に闇の中を駆け出していった。
続く




