第32話 頭を下げる母と路地裏のサーチライト
新台場の下水が滝のように流れ込む、スラム最下層の地下闇市。
由美は皮のコートの襟を立てて、悪臭の漂う路地裏の壁に背を張り付けて息を潜めていた。
「おい、アリス本社の警備ドローンだ。隠れろ!」
闇市の住人たちのくぐもった声と共に、路地の上空を青白いサーチライトが不気味に通り過ぎていく。
神崎の部下たちが、鉄男と源寺の血痕を追って、すでにスラムの深部まで嗅ぎ回りに来ているのだ。
心臓が早鐘のように鳴る。だが、ここで怯えて引き返すわけにはいかなかった。
(鉄さん……源寺さん……どうか、持ち堪えて……)
サーチライトが遠ざかったのを確認し、由美は再び重い足を引きずって闇市の奥へと進んだ。
目当ては、強烈な感染症を抑え込むための軍用抗生物質と、源寺が通信傍受に使うための基盤だ。
「……お願いです。このお金で、抗生物質を……」
モグリの闇医者がテントを張る違法薬局で、由美は持ってきたなけなしの紙幣を差し出し、深く頭を下げた。
「ハッ、冗談だろ奥さん。今、上の連中が血眼になって怪我人を探してんだ。そんなはした金で危険な橋が渡れるかっての。とっとと失せな」
「そこをなんとか……! 夫が、熱で死にかけてるんです!」
「しつけえな! 貧乏人は大人しくドブの中で死んでろ!」
男に無情に突き飛ばされ、由美は冷たい泥水の中に這いつくばった。
すりむいた手のひらから血が滲む。それでも彼女は歯を食いしばり、泥にまみれた紙幣を拾い集めては、次のジャンク屋へ、次の売人へと、頭を下げて回った。
かつてはスラムの底辺で「荒川の由美」と恐れられ、誰かに頭を下げることなど一度もなかった女が、今はただの非力な一人の『母』として、家族のために泥水をすすっている。
二時間後。
冷たい雨に打たれ、体力の限界が近づいた時だった。
闇市の最も奥深く、違法パーツと薬物を扱う薄汚れた売人のテントに、目当ての抗生物質の瓶と、源寺が指定した通信基盤が転がっているのを由美の目は逃さなかった。
「あ……あの、それ、いくらですか?」
由美は震える声で尋ねた。
葉巻を咥えた大柄な売人の男は、由美の顔から足元までを舐め回すように見つめ、下劣な笑みを浮かべた。
「ほう……抗生物質と通信基盤? 随分と物騒な買い物じゃねえか、奥さんよー!」
男は奥でたむろしていた用心棒のゴロツキたちに顎で合図を送る。
瞬く間に、由美は退路を絶たれ、誰の目にもつかない暗い路地裏の奥へとジリジリと追い詰められてしまった。
「そんなはした金で足りるわけねえだろ。金が足りねえなら、その体で払ってもらうしかねえよなぁ……。」
「おい、この女を裏へ連れて行け」
ゴロツキたちがニヤニヤと笑いながら、由美の細い腕を乱暴に掴み上げる。
――家族を救うための悲願が、最悪の暴力に蹂躙されようとしていた。
続く




