第30話 地下室の消毒液と消えない息子の声
分厚い鉛の扉が重い音を立てて開き、俺は血と泥にまみれた源寺を引きずりながら、シェルターの冷たい床に崩れ落ちた。
「あなたっ! 源寺さん……!」
独立発電機の傍らで息を潜めていた由美が、悲鳴を押し殺して駆け寄ってくる。
俺たちの手ぶらの無惨な姿を見て、彼女は全てを悟ったのだろう。それ以上は何も聞かず、すぐに旧式の医療キットを引きずり出してきた。
「すまねえ、由美……。俺を庇って、源寺が……」
肋骨の激痛で息も絶え絶えな俺の言葉を、由美は「喋らないで」と目で制した。
麻酔などという気の利いたものは、このスラムにはない。
由美は震える手を必死に抑え込み、源寺の泥だらけのコートを裂くと、ひしゃげた胸部に容赦なく消毒液をぶちまけた。
「ぐ、がァァッ……!」
気絶していた源寺が激痛で跳ね起き、血走った目で宙を睨む。
「動かないで源寺さん! 肋骨が肺に刺さるわ!」
由美が必死に押さえつけ、手際よく医療用ホッチキスで開いた肉を塞いでいく。俺はその横で壁に背を預け、ただ自分の無力さに歯を食いしばるしかなかった。
治療を終えた由美が、俺の折れた肋骨を再びきつく固定し直す。
シェルターの中には、血と消毒液のツンとした匂いと、俺たち三人の重い呼吸音だけが響いていた。
「……最悪だ」
床に倒れたままで、包帯だらけの源寺がポツリとこぼした。
「俺のデバイスが完全にイカれた。スラムのジャンクパーツじゃ、もう二度と同じ精度の代物は組めねえ。……空へのジャミングも、あの首のロックを解除するパスワードの解析も、もう俺たちにはできねえんだ」
源寺の言葉が、冷たい鉛の壁にぶつかって虚しく響く。
手足をもがれたも同然だった。最大の武器を失い、俺たちは巨大な壁の前に立ち尽くす、ただの初老のネズミに戻ってしまった。
「……俺のせいだ」
俺は両手で顔を覆い、泥だらけの指の隙間から、絞り出すように声を漏らした。
「俺が、あの首を斬れなかった。奴が……機械の頭が、翔太の記憶を使って、俺に命乞いをしたんだ。あの声で、あの涙で……ッ! 俺はどうしても、腕を振り下ろせなかった!」
七年ぶりに聞いた息子の声が、耳の奥にこびりついて離れない。
親としての俺の愛が、最大の弱点として利用され、結果的に源寺を死の淵まで追い込み、息子を再び地獄へ送り返してしまった。
後悔と怒りで、奥歯が砕けそうなほど噛み締める。
ふと、温かい手が俺の泥だらけの頬を包み込んだ。
涙で顔をぐしゃぐしゃにした由美だった。
「……あなたは間違っていないわ」
由美は俺の額に自分の額をすり寄せ、嗚咽を漏らしながら囁いた。
「親が、泣いている我が子を斬れるわけがない。そんなことしたら、あなたは二度と、翔太の父親に戻れなくなってしまう……」
「だが、俺が甘かったせいで……」
「いいえ。……私だって、その場にいたら絶対に斬れなかった。翔太の心を、記憶を利用してあなたを傷つけたあの男たちを……私は、絶対に許さない」
普段は穏やかな由美の瞳の奥に、かつて見たこともないような、暗く冷たい怒りの炎が宿っていた。
「……ああ、そうだぜ。終わっちゃいねえ」
血を吐きながら、源寺が不敵な笑みを浮かべた。
「システムからのハッキングができなくなったんなら……やることは一つしかねえだろ、鉄」
俺は顔を上げ、傍らに転がったままの高圧鋲打ち機を真っ直ぐに見つめた。
「……ああ。スラムの泥沼から、新台場の上層(アリス本社)へ直接乗り込む。あのバケモンみたいなビルの物理サーバーを、俺たち底辺の職人の手で、外から直接カチ割ってやる」
冷たい鉛の底で、敗北の傷を舐め合う時間は終わった。
全てを失った三人の親の底なしの怒りが、静かに、だが確実に、反撃の火種へと変わろうとしていた。
続く




