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第29話 泥水に沈むハッキングデバイスと空へ逃げる神崎


 泥水を蹴り上げ、翔太の体が砲弾のような速度で迫る。


「ぐおおッ!」


 俺は必死に丸鋸(まるのこ)の腹でその凶悪な拳を受け流すが、凄まじい衝撃に腕の骨が軋み、泥濘(でいねい)の中を後方へと滑り飛ばされた。


 ウイルスの影響で動きが鈍っているとはいえ、生身の親父と機械に操られたサイボーグでは、まともにやり合えば数秒でミンチにされる圧倒的な力の差だ。


「死ね! その薄汚い職人をただの肉塊に変えてしまえ!」


 安全な後方に下がりながら、神崎が狂ったように叫ぶ。


 翔太の体が再び跳躍し、俺の脳天めがけてとどめの一撃を振り下ろそうとした、まさにその時だった。


 バチィッ!!


 機械の頭部から一際大きな火花が散り、空中にいた翔太の体が激しく痙攣(けいれん)して、不時着するように泥水へと落下した。


 赤い義眼が明滅し、その動きが完全に硬直する。


 源寺の仕込んだ猛毒(ウイルス)が、ついに中枢神経の急所に到達したのだ。


(今だ……! この一瞬しかねえ!!)


 俺は痛む肋骨の限界を無視し、狂暴な回転音を轟かせる丸鋸を構え、泥濘を蹴って跳躍した。


 狙うはただ一つ、無防備に止まった息子の首に乗る醜悪な頭部だけだ。


「砕け散れェェッ!!」




 だが、丸鋸の刃が機械の首筋に触れるかというその刹那。


 猛毒に蝕まれ、機能停止の淵に立たされた人工知能が、生き残るための「最悪の防衛策」を弾き出した。


 奴は、首から下の生身の肉体――翔太の脳髄の奥底に眠る『生きた記憶』に強制接続したのだ。


 ギギッ……と不自然な音を立てて、機械の顎(あご)が動いた。




 そして、廃工場の雨音を切り裂いて響いたのは、無機質な合成音ではない。七年間、俺の耳の奥にこびりついて離れなかった、生身の息子の声だった。


『父さん……痛いよ。どうして僕を殺すの……?』


「……っ!?」


 俺の全身の血が凍りついた。


 見開かれた赤い義眼の下で、翔太の生身の頬が苦痛に歪み、その目尻から本物の涙が泥水へとこぼれ落ちた。


『助けて、父さん……一緒に家に帰ろう……』


「翔太……お前、なのか……?」


 俺の腕から、一瞬にして全ての力が抜け落ちた。


 それが生き残るためにシステムが作り出しただけの偽物(フェイク)だと、頭では分かっている。


 だが、泣きじゃくる息子の声と涙を前にして、俺の職人としての強靭な腕は、ただの無力な肉の塊に成り下がってしまった。


 ダラリと、丸鋸が泥水の中に垂れ下がる。


「素晴らしい! 追い詰められて生体防衛機能まで起動するとは、流石は五億の価値がある!」


 泥まみれの神崎が、歓喜の声を上げて下劣に笑い転げた。


 その隙を、機械の頭部が見逃すはずがなかった。


 涙を流したままの翔太の肉体が、再び鋼鉄を砕くほどの拳を振り上げ、無防備な俺の顔面へと無慈悲に迫る。


「目を覚ませ鉄!! そいつはただの残骸だ!!」


 背後から飛び出してきた源寺が、俺の体を横殴りに泥水へと突き飛ばした。


 直後、凄まじい衝撃音が響き渡る。


 源寺を庇った俺の目に飛び込んできたのは、翔太の凶悪な拳が、源寺の懐にあった『猛毒を操るためのハッキングデバイス』を、完全に粉砕した光景だった。


「がはッ……!!」


 胸を強く打たれた源寺が、血を吐いて泥濘に倒れ込む。


 バキィッ、という無惨な音と共に、俺たちの七年間の希望を繋いできたハッキングデバイスは、ただの屑鉄と化して泥水に沈んだ。


 だが、その一撃を放った直後。  


 ついに四十八時間の猛毒が機械の中枢神経を完全に喰い破った。


 バチバチッと激しい火花を散らし、翔太の逞しい肉体が、糸の切れた操り人形のようにガクンと膝をつき、完全に沈黙した。


「今だ……鉄ッ! ウイルスが完全に回った……! あの豚をぶっ殺して、翔太の体を奪い返せッ!」  


 泥まみれの源寺が血を吐きながら叫ぶ。  


 俺は丸鋸(まるのこ)を構え直し、這いつくばる神崎へと殺意を向けた。


「ヒィィッ……! くるな、寄るなァッ!」


 顔面を蒼白にさせた神崎が泥の中を後ずさる。だが次の瞬間、奴の懐で赤い光がピピピッ、と甲高い音を立てて点滅を始めた。


「……っ!? まさか!」  


 俺は絶望に歯を食いしばった。  


 翔太の拳に粉砕された源寺のハッキングデバイス――あれは、この廃工場一帯の通信を遮断する『ジャミングの制御装置』でもあったのだ。


 要の装置が壊れたことで、神崎の緊急通信機が、新台場の上層と再び繋がってしまった。


「ジャミングが……消えた? ハ、ハハハハッ! 繋がったぞ、本社の回収部隊に繋がった!!」  


 神崎が狂喜の声を上げ、通信機を天へと掲げた。


 ゴォォォォッ!!  


 途端に、上空の分厚い雨雲を突き破り、新台場の上層から射出された治安維持局の『緊急回収用の装甲艇』が、凄まじい風圧と共に落下してきた。


 装甲艇から伸びた太い鋼鉄の腕が、動かなくなった翔太の体と、それにしがみつく神崎を乱暴に掴み上げる。


「待てェェッ!! 翔太ァァァッ!!」


 俺は泥水に塗れながら絶叫し、空へ向かって高圧鋲打ち機を放った。  


 だが、鋼鉄の杭は分厚い装甲艇の底に虚しく弾かれ、夜の闇へと消えていく。


 圧倒的な力と権力が、再び俺の目の前で息子を強奪していく。  


 最大の武器であるジャミングとハッキングデバイスを失い、俺と源寺は、冷たい雨の降る廃工場にただ無力に取り残された。




続く

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