第3話 三億円の通帳
絶叫は、やがて嗚咽に変わり、最後は乾いた沈黙になった。
町屋の古い居間。
ちゃぶ台の上には、銀色の保冷ケースが鎮座している。
蓋は閉じた。開けておくには、あまりにも現実が残酷すぎたからだ。
妻の由美は、その箱を抱きしめるようにして床に伏せっている。
泣きすぎて涙も枯れたのか、今はただ、壊れた人形のように動かない。
「……くそッ」
俺は壁を殴りつけた。
拳の皮が破け、薄い板壁に穴が開く。だが、痛みなんて感じなかった。
心臓が雑巾絞りにされているような苦しさに比べれば、こんな痛みは蚊に刺されたようなもんだ。
その時、俺のこめかみに装着したスマートレンズに、軽快な通知音が鳴った。
あまりにも場違いな、間抜けな電子音。
『入金のお知らせです』
視界の端に、銀行口座の残高が表示される。
俺は我が目を疑った。
¥ 300,000,000 -
ゼロの数が、狂っている。
三億円。
貧乏印刷工場の俺たちが、あと百年働いたって稼げない金額だ。
摘要欄には、事務的な文字でこう書かれていた。
『政府特別感謝金(Sランク身体資源提供代)』
「……ははっ」
乾いた笑いが漏れた。
これが、翔太の値段か。
あいつが夏休みに走り回って、俺の背中を流して、飯を美味そうに食って育った、あの「体」の値段か。
この金があれば、輪転機を最新にできる?
工場の借金を返せる?
タワマンに住める?
「ふざけるな……ふざけるなぁーッ!!」
俺はスマートグラスをもぎ取り、床に叩きつけて踏み潰した。
バキリと音がして、三億円の数字が消滅する。
金なんかいらねえ。
俺が欲しいのは、三億円のデータじゃない。
あいつの、汗臭くて温かい体だ。
「おい、由美。起きろ」
俺は妻の肩を掴んで無理やり起こした。
由美は虚ろな目で俺を見る。
「……あなた……翔太が……死んじゃった……」
「違え。よく聞け」
俺は由美の顔を両手で挟み、無理やり目を合わせさせた。
「あいつらは、翔太の体を『資源』として持ってったんだ。資源ってことは、使うってことだろ? なら、あいつの心臓はまだ止まってねえ」
「で、でも……ここにあるのは……」
「これはただの『抜け殻』だ!」
俺は保冷ケースの中の、白く冷たくなった息子の顔を見下ろした。
愛おしい顔だ。だが、ここにはもう熱がない。
「脳みそがあれば人間なのか? 違うだろ。汗をかいて、飯を食って、走り回ってたあの『体』こそが翔太だ。あいつの体は、今もどこかで温かい血を流して生きてるんだ。なら、翔太はまだ死んでねえ!」
無茶苦茶な理屈だということは分かってる。
医学的に言えば、脳が死ねば人間は終わりだ。
だが、俺の職人としての直感が叫んでいた。
――魂ってのは、頭だけじゃなく、染み付いた「手触り」に残るもんだ。
「取り返しに行くぞ」
「え……?」
「法律? 国有化? 知ったことか。俺の子だ。俺が育てた体だ。泥棒にくれてやる義理はねえ」
俺はちゃぶ台の上の「書類」をひっ掴んだ。
そこには、息子の体が「どこの誰」に譲渡されたのか、肝心な情報は黒塗りにされていた。
だが、手掛かりがゼロなわけじゃない。
俺の目は、部屋の隅にある「翔太の勉強机」に向けられた。
あいつが大事にしていた、古臭いタブレット端末。
あの中には、あいつの「日記」や「友達とのやり取り」が残っているはずだ。
誘拐される直前、あいつが何を見て、どこへ向かおうとしていたのか。
「警察は動かねえ。世間も俺たちを笑うだろう。……だから、俺たちがやるんだ」
俺は由美の手を取り、ゴツゴツした指で強く握りしめた。
「泣いてる暇があったら、靴を履け。戦の準備だ」
窓の外では、今日も平和ボケしたドローンが空を飛んでいる。
待ってろよ、泥棒野郎。
三億円積まれても売る気がなかった「宝物」を奪った罪、きっちり償わせてやる。
続く




