第17話 透明人間と、靴の先のパン屑
「いらっしゃいませ。お待ちしておりました」
ネオ台場・一等地にある超高級フレンチレストラン『ル・シエル』。
俺は今夜も、完璧な45度の角度で腰を折り、滑り込んでくる高級車のドアを開け続けていた。
「おい、傘の角度が悪いぞ。スーツが濡れたらどうする気だ」
「大変申し訳ございません」
傲慢な若造に舌打ちされても、俺の顔に張り付いた「愛想笑い」は1ミリも崩れない。
この7年、スラムの底辺で泥水をすすってきた俺にとって、頭を下げることなど息をするより簡単なことだった。
俺の読みは当たっていた。
このレストランに集まる上流階級(VIP)の連中は、ドアマンのことなど「人間」だと思っていない。自動ドアのセンサーか、せいぜい便利な動く家具くらいにしか認識していないのだ。
だからこそ、奴らは俺の前で、平気で「ヤバい話」をする。
「……で、例のアリスの投資案件だがね」
俺が車のトランクからゴルフバッグを下ろしている真横で、恰幅のいい老人が、葉巻をふかしながら連れの男に囁いた。
(アリス……!)
その単語を聞いた瞬間、俺の耳の奥で、7年前の銃声がフラッシュバックする。
俺は息を殺し、トランクの影に身を潜めたまま、全神経を聴覚に集中させた。
「聞いたか? 最近、アリスの生体研究所から『極上の検体』が仕上がったらしい。なんでも、7年かけて培養した特別なボディだとか」
「ほう。次回の地下オークションに出るのかね?」
「いや、すでに買い手は決まっているそうだ。どこかの軍事企業か、それとも……」
ドクン、と。心臓が嫌な音を立てた。
7年かけて培養した特別なボディ。
それが、奪われた翔太の体なのかどうかは分からない。だが、7年間、スラムのゴミ山を這いつくばっても見つからなかった「アリスの手がかり」が、今、靴の先まで転がってきたのだ。
「おい。いつまでモタモタしている」
突然、老人の連れの男が、俺の背中を革靴で蹴りつけた。
「バッグ一つ下ろすのに何秒かけている。これだから下層のネズミは使えない」
蹴られた肋骨が軋む。7年前の古傷が痛んだ。
だが、俺はすぐに立ち上がり、深く頭を下げた。
「大変失礼いたしました。すぐに控え室へお運びいたします」
「フン。触るな、インク臭い。別の者を呼べ」
男は俺を汚物でも見るような目で睨みつけ、レストランの中へと消えていった。
雨に濡れたエントランスに取り残され、俺は泥のついた制服の裾を静かに払った。
怒りはない。
いや、怒りを燃やすための「燃料」が、今夜ついに手に入ったのだ。
「……地下オークション、か」
俺は白い手袋を外しながら、暗い空を見上げた。
荒川のボロ家で、今日も由美が必死に冷凍ポッドのモーター音を守っているはずだ。
凍りついた翔太の首が、俺を待っている。
(待ってろよ、翔太。……父ちゃん、必ず尻尾を掴んでやる)
ネオンの光を弾く水たまりの中で、俺は久しぶりに、獣のように牙を剥いて笑った。
続く




