第16話 命のメトロノームと屈辱の制服
ブゥン……、ブゥン……。
荒川のボロ家に響く、極低温ポッドのコンプレッサー音。
それが、俺たち家族の「命のメトロノーム」だった。この音が止まれば、翔太の時間は終わる。だから俺たちは、この機械音の奴隷になった。
1年目。
俺は生き残っていた輪転機の部品を全て売り払い、液体窒素のタンクを買った。指先に染み付いたインクの匂いが、完全に消えた。
3年目。
スラムの地下闘技場で、殴られ屋の真似事をした。アリスの部隊にやられた古傷が開き、奥歯を三本折られたが、その血まみれの札束でポッドの冷却ガスを補充した。
5年目。
由美が過労で倒れた。スラムの違法な化学工場で、防毒マスクもなしに危険な薬品を洗うパートを掛け持ちしていたせいだ。
彼女の白くて柔らかかった手は、薬品で焼けただれ、ヤスリのようにひび割れていた。それでも由美は、布団の中でポッドのガラスを見つめ、「……翔太の顔、今日も綺麗ね」と笑った。
俺は、自分の無力さに吐き気がした。
このまま泥水をすすり続けても、翔太の命を「現状維持」するだけで精一杯だ。奪われた「体」の手がかりなんて、スラムのゴミ山をいくら掘り返しても見つかるはずがない。
奴らは、上流階級(VIP)だ。
翔太の体は、このどん底の街にはない。あの、光り輝くネオ台場の摩天楼のどこかにある。なら、這いつくばってでも、奴らの懐に潜り込むしかない。
――そして、7年目の冬。
「……似合わねえな」
俺は、公衆便所の割れた鏡の前で、不格好にネクタイを締めていた。
金ピカの装飾がついた、窮屈で滑稽な制服。俺が血反吐を吐いて手に入れた新しい仕事――超高級レストランの「ドアマン」の衣装だ。
「鉄、本当にいいのか?」
背後で、源寺が片目に眼帯をした姿で壁によりかかっていた。アリスの防壁をハッキングした際の逆探知で、視神経を焼かれた名残だ。
「VIPの車を開けるドアマンなんて、お前が一番嫌悪してた連中の『犬』になるってことだぞ」
「プライドで翔太の体が買えるなら、とっくに買ってるさ」
俺は制服のシワを伸ばし、自嘲気味に笑った。
「それに、金持ちってのは、自分に頭を下げる人間の顔なんて見ちゃいねえ。空気と同じだ。情報を探るには、一番都合のいい透明人間になれる」
俺は鏡の中の自分を睨みつけた。
白髪交じりの頭。深いシワ。インクの匂いすら失った、空っぽの初老の男。だが、その目の奥の「炎」だけは、7年前から1ミリも消えちゃいない。
「……行ってくる。由美と、モーターの音を頼んだぞ」
「ああ。死ぬなよ、透明人間」
ネオ台場・一等地。
きらびやかなネオンが、泥まみれの俺の過去を嘲笑うかのように降り注いでいる。俺は白い手袋をはめ、レストランのエントランスに立った。
「いらっしゃいませ。お待ちしておりました」
漆黒の高級車が滑り込んでくる。
俺は完璧な角度で腰を折り、かつてバールを握りしめていたその手で、うやうやしく車のドアを開けた。
俺から全てを奪った、憎き連中のために。
これが、這いつくばった親父の、最後の戦いの始まりだ。
続く




