第14話 命の冷却音と泥まみれの小銭
プシューッ……、ブゥン……。
荒川の河川敷に建つ、隙間風だらけのボロ家。
その部屋の真ん中で、不釣り合いに巨大なコンプレッサーの重低音と、冷却ガスの排気音が響き続けている。
源寺が組み上げた「医療用極低温ポッド」。マイナス196度の液体窒素を循環させ、細胞のガラス化を維持するこの機械の音が、今の俺たちにとって翔太の「心臓の音」だった。
「……ただいま」
俺は軋む引き戸を開け、泥と油にまみれた体を土間に投げ出した。
「お帰りなさい、あなた」
由美が、ひび割れた湯呑みに白湯を注いで渡してくれた。
かつて印刷工場で元気に立ち働いていた頃のふっくらとした頬は、たった数ヶ月でげっそりと削げ落ちている。
「今日の分だ」
俺はポケットから、しわくちゃの千円札と、ジャラジャラとした小銭を取り出し、畳の上に置いた。
スラムの廃棄物処理場での日雇い労働。肋骨の痛みを痛み止めで誤魔化しながら、14時間ぶっ続けで有毒なゴミを分別して、たったのこれだけだ。
「ありがとう。私が今日、内職で稼いだ分と合わせれば……明日の『液体窒素』の補充代と、莫大な電気代はどうにかなりそうだわ」
由美は小銭を一枚一枚、愛おしそうに数え、空き缶の中に入れた。
チャリン、チャリンという音が、胸に突き刺さる。
アリスたち富裕層が、シャンパン一杯に使うような端金だ。だが俺たちにとっては、息子の命を一日延長するための、血の結晶だった。
「わりぃ、鉄。……ちょっとヤバいかもしれねえ」
部屋の隅で、ポッドの配線を弄っていた源寺が、血相を変えて立ち上がった。
「どうした、源寺」
「スラムの違法配電盤から引いてる電力が、急激に落ちてる。アリスの息がかかった治安維持局の連中が、この区画の送電を絞りやがったんだ」
源寺が指差した先で、ポッドのデジタル温度計が「-196℃」から「-190℃」へと、不気味に点滅しながら上がり始めていた。
「おい、冗談だろ……! 電気が止まったら翔太はどうなる!」
「冷却ガスの循環が止まる。温度が少しでも上がれば、ガラス化した細胞の均衡が崩れて、翔太の脳組織は内部からひび割れちまう。完全に崩壊するぞ」
源寺が焦ったようにタブレットを叩く。
「……っ!」
由美が顔面を蒼白にして、ポッドのガラスの前に立ちはだかるように両手を広げた。まるで、自分の体温で冷気を逃がすまいとするかのように。
「クソったれが……!」
俺は壁を力任せに殴りつけた。
金がねえ。権力もねえ。俺たち底辺の人間は、ただ上の連中の気まぐれで「電気を絞られる」だけで、愛する家族の命すら守れないのか。
体を持っていかれた上に、首まで腐らせてたまるか。
「源寺! なんとかする方法はあるんだろ! バッテリーでも発電機でも、なんでもいい!」
「一つだけある。……だが、ヤバい橋を渡ることになるぞ」
源寺が、スラムの地図をモニターに映し出した。
「ここから2キロ先の、治安維持局の『中継基地』だ。あそこの地下には、軍事用の超高圧バッテリーがある。あれをぶっこ抜いてこれば、外部電力が絶たれても数ヶ月はポッドを維持できる。……ただ、重武装の警備ドローンがウヨウヨしてる。盗みに行けば、蜂の巣にされる確率が高い」
「行くぞ」
俺は迷わず、足元にあったバールを拾い上げた。
「蜂の巣になろうが、腕がもげようが関係ねえ。翔太の時間を終わらせるくらいなら、地獄の底まで泥棒に行ってやる」
由美が、俺の背中を見つめていた。
止める言葉はなかった。ただ、ポッドの前に立ちふさがったまま、強く、強く頷いた。
「気をつけて、あなた。……私、絶対にこの子の温度は上げさせないから」
「ああ。頼んだぞ」
俺と源寺は、冷たい雨が降るスラムの闇の中へと飛び出した。
全ては、あの冷却音を絶やさないため。
俺たちの、血を吐くような底辺の戦いが、今夜も始まる。
続く




