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第13話 荒川のボロ家と、ガラス化された時間


 冷たい雨が、頬を叩いていた。


 全身の骨が軋み、息をするだけで肺の奥で血の味がする。


「……ぐ、ぅ……」


 俺が目を覚ましたのは、スラムの最下層にある巨大な産業廃棄物の山の中だった。


 アリスの私兵部隊は、俺を徹底的に痛めつけた後、殺す価値すらない「ゴミ」としてここに投げ捨てたらしい。


 奴らにとって、俺たちは人間ですらない。ただのインク臭い虫けらだ。だが、生きていた。


 右足はまともに動かない。肋骨も何本か折れているだろう。


 それでも俺は、泥水と油にまみれたゴミの山を這い上がった。


(由美……翔太……源寺……)


 頭にあるのは、ただそれだけだ。


 俺が囮(おとり)になった隙に、あいつらは逃げ切れたのか。


 翔太の「首」は無事なのか。


 俺は折れた鉄パイプを杖代わりにして、土砂降りの闇の中を、荒川の河川敷へと向かって引きずり歩いた。


 どれくらい歩いたか分からない。


 意識が遠のきかけた時、見覚えのある橋の下、トタン板とブルーシートで作られた不法居住区(ボロ家)の集落が見えた。


 その一番端の小屋から、微かな灯りが漏れている。


「……由美……」


 戸を叩く力もなく、俺はその場に倒れ込んだ。




 バタンッ!


「鉄!? あなたなの?」


 戸が開き、飛び出してきたのは由美だった。


 泥だらけの俺を抱き起し、彼女は声を上げて泣き崩れた。


「よかった……よかったぁ……っ! 死んじゃったかと思った……!」


「お前ら……無事だったか……」


「ええ。源寺さんが、ここまで案内してくれたの。……翔太も、一緒よ」


 源寺に肩を貸され、小屋の中に入ると、そこには異様な光景が広がっていた。


 外見はただのボロボロの業務用冷凍庫だが、そこから無数のチューブが伸び、見たこともないタンクと複雑な配線で繋がれている。


「間に合ったぜ、鉄」


 源寺が、オイルにまみれた手で汗を拭いながら言った。


「源寺……これは?」


「ただ凍らせたんじゃねえ。普通の冷凍庫じゃ、細胞内の水分が膨張して破裂しちまうからな。それじゃあただの肉塊だ」


 源寺は傍らにある銀色のボンベを叩いた。


「スラムの闇ルートから『医療用不凍液』と『冷却コア』を調達してきた。


 翔太の血液を全部抜き取って不凍液と入れ替え、細胞を『ガラス化』させたんだ。今はマイナス196度の液体窒素で、完全に時間を止めてる。外側の冷凍庫は、ただのダミー(目隠し)だ」


 俺は這うようにして近づき、分厚い断熱ガラスに額を押し当てた。


 真っ白な冷気の向こうで、翔太は目を閉じて眠っている。


 腐敗もせず、細胞を壊されることもなく、生きていた頃の綺麗な顔のままだ。


「……待ってろよ、翔太」


 俺はガラス越しに、冷え切った息子に語りかけた。


「俺が必ず、お前の『体』を見つけ出す。どんな手を使ってでも、お前を丸ごと取り返してやるからな……」


「だが、鉄」


 源寺が重い口を開いた。


「こいつを維持するには、細胞を安定させるための莫大な電力と、定期的な『液体窒素』の補充がいる。ハンパな金じゃねえ。一日でも補充が遅れれば、翔太の脳は溶けて終わるぞ」


 由美が、背中から俺を強く抱きしめた。


 彼女の体も震えていた。これから始まる果てしない絶望の長さを、彼女も悟っていたからだ。


「生きよう、鉄さん。……私、何をしてでも稼ぐわ。この子の時間を、絶対に終わらせたりしない」


「ああ……。俺も、泥水すすってでも生き抜いてやる」


 これが、俺たちの新しい「家」だ。


 印刷工の誇りも、ささやかな幸せも、全部奪われた。


 残されたのは、凍りついた息子の首と、決して消えない怒りだけ。


 首の命を繋ぐための、長く、暗い、底辺での生活が、この日から始まった。




続く

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