第11話 麦茶とインクと、母の涙
ゴミ収集車のコンテナが傾き、俺たちは生ゴミの山と共に、スラムの埋立地に吐き出された。
強烈な腐臭。
だが、あの無菌室のツンとした薬品の臭いより、ずっとマシだ。これは俺たちが生きている街の臭いだからだ。
「……ッ、痛ぅ……」
源寺が脇腹を押さえて呻く。着地の衝撃でどこか痛めたらしい。
「大丈夫か、源寺」
「平気だ。それより鉄、急げ。アリスの野郎、もう『指名手配』の手回しをしてやがる」
源寺が見せたタブレットには、俺たちの顔写真と『第一級テロリスト』の文字が踊っていた。
賞金首か。上等だ。
俺は背中の翔太を抱き直し、闇に沈む路地裏を走った。
雨が降り始めていた。冷たい雨が、翔太の体の温もりを奪わないように、俺は作業着の前を合わせて必死に庇った。
慣れ親しんだトタン屋根が見えてきた。
俺の城――古ぼけた印刷工場だ。
シャッターの隙間から、灯りが漏れている。
ガラララッ……!
引き戸を乱暴に開けると、インクと油の匂いが俺たちを迎えた。
輪転機が静まり返った工場の土間。
「……あなた?」
工場の奥――住居スペースから、妻の由美が現れた。
ひどくやつれた顔。目は泣き腫らして真っ赤だ。
その手には、麦茶の入ったヤカンと、コップが握られている。
俺たちがいつ帰ってきてもいいように、祈るような思いで用意していたのだろう。
だが、その手はカタカタと小さく震えていた。
「……無事、なの……?」
絞り出すような声。
由美の視線が、俺の泥だらけの顔から、背中の「ぐったりとした体」へと移る。
ガシャン!!
ヤカンが手から滑り落ち、コンクリートの床に叩きつけられた。
蓋が外れ、中の麦茶が飛沫を上げてぶちまけられる。
「あ……あぁ……」
由美はその場に膝から崩れ落ちた。
俺は何も言わず、泥だらけの靴を脱ぎ捨て、翔太の体をゆっくりと小上がりの畳の上に寝かせた。
そのすぐ横には、タオルに包まれた翔太の「首」が置かれている。
やっと、揃った。首と、体。でも、繋がってはいない。
麦茶の香ばしい匂いが漂う土間で、由美の嗚咽だけが響いていた。
「すまねえ……! 元通りにしてやれなくて、すまねえ……!」
俺は畳に額を擦り付けて謝った。
職人なら、壊れたものは直せる。
でも、こればかりは、俺の持っているカッターやスパナじゃどうにもならない。
「……違う。違うの、あなた」
由美が、俺のインクまみれの手を握りしめた。その手は氷のように冷たかったが、痛いほど強く俺を掴んだ。
「帰ってきた……やっと、全部帰ってきたのよ……」
由美は泣きながら、翔太の体と首を交互に撫でた。
「おかえり、翔太。寒かったでしょう。怖かったでしょう」
その時だ。
工場の外から、けたたましいサイレンの音が近づいてきた。
一台や二台じゃない。軍隊のような重低音が、この平屋を取り囲もうとしている。
「鉄、泣いてる時間はねえぞ」
源寺が窓の隙間から外を覗き、血相を変えて振り返った。
「警察じゃねえ。『対暴動鎮圧部隊』だ。……アリスの親衛隊が来やがった」
俺は顔を上げ、涙を袖で拭った。
もう、泣いている暇はない。
俺たちは「被害者」から「テロリスト」になったんだ。
「由美、翔太を背負えるか」
「……ええ、やれるわ」
由美が立ち上がり、涙を拭った。その目には、母親の強烈な覚悟が宿っていた。
「よし。裏口から逃げるぞ。この街全部を使った、鬼ごっこの始まりだ」
続く




