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形成外科医は傷跡を読む  作者: キボウシ


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2/3

北の街へ(後編)

 救急外来の自動ドアが開いた瞬間、冷たい風とともにストレッチャーが運び込まれた。


「十六歳、女性。自宅近くで転倒。ガラス片で左頬を受傷。意識清明、血圧一一117/80、脈拍90、出血は圧迫でコントロールできています」


 救急隊員が手際よく申し送りをする。


 神崎は頷きながら患者の顔に視線を落とした。


 少女の長い黒髪は血で頬に張り付き、左の頬から口角へかけて赤黒い血液が流れている。両手は強く握りしめられ、小刻みに震えていた。


「名前は?」


「白石美咲さんです」


「美咲さん、聞こえますか」


 少女はゆっくりと目を開けた。


 瞳は澄んでいる。しかし、その奥には外傷とは別の恐怖が宿っていた。


「先生……」


 かすれた声だった。


「安心してください。傷は私が診ます」


 神崎はそう言いながら手袋をはめた。


 看護師が生理食塩水を準備する。


「洗浄します。少し痛みますよ」


 血液が洗い流されるにつれ、傷の全貌が現れた。


 処置室の空気がわずかに変わる。


 長さは約七センチ。


 左頬骨の下から口角近くまで斜めに走る裂創。


 表情筋の一部が露出しているが、幸い耳下腺管や顔面神経の走行とは少しずれている。


 きれいに縫合すれば、大きな後遺症は避けられる。


 そこまではよかった。


 だが、神崎の指先は小さな違和感を拾っていた。


(創縁が……滑らかすぎる。)


 ガラスによる裂創なら、細かな皮膚の裂けや不規則な切れ込みが残ることが多い。


 しかし目の前の傷は違う。


 一本の鋭利な刃物で引いたように整っている。


 もちろん断定はできない。


 だが、「転倒して割れたガラスで切った」という説明と完全には一致しなかった。


「ガラスで転んだんですよね?」


 神崎は付き添ってきた女性へ尋ねた。


 三十代後半ほどだろうか。近所の住民らしく、落ち着かない様子で立っている。


「はい……そう聞いています。」


「見ていたんですか?」


「い、いいえ……物音がして外へ出たら、この子が倒れていて……」


 言葉が途切れる。


 神崎はそれ以上聞かなかった。


 今は治療が優先だ。


「局所麻酔します」


 細い針が皮膚へ入る。


 美咲は眉をひそめたが、声は上げなかった。


「痛かったら言ってください」


 彼女は小さく首を振る。


 神崎は傷の奥を慎重に確認した。


 筋肉の断裂は最小限。


 異物もない。


 形成外科では、ただ皮膚を閉じるだけでは終わらない。


 皮下組織、真皮、表皮――層ごとに丁寧に縫い合わせ、張力を分散させることで、数年後の傷跡まで変わる。


 一針、一針。


 静かなリズムで針が進む。


 神崎は縫合中、患者の表情をよく観察する癖があった。


 人は痛みだけではそんな顔をしない。


 恐怖、後悔、怒り、諦め。


 感情は必ず顔に現れる。


 美咲は、ずっと処置室の天井ではなく、窓の外を見ていた。


 そこには夕暮れの森が広がっている。


 針を置く神崎の手が止まる。


「森が気になる?」


 少女は何も答えない。


 しかし数秒後、震える唇がゆっくりと動いた。


「……行かないで。」


「え?」


「先生……森には……行かないで。」


 その一言だけだった。


 麻酔が効いてきたのか、彼女は静かに目を閉じる。


 神崎は返事をすることもできず、縫合を再開した。


 約五十分後。


「終了です。」


 最後の結び目を切る。


 傷は細い一本の線へと変わっていた。


「さすが先生。」


 師長の高橋が感心したように言う。


「これなら目立たなくなりますね。」


「まだ始まりです。半年、一年とかけて診ていきます」


 神崎はそう答えながらカルテを書き始めた。


 [受傷機転:転倒によるガラス裂創(本人・付き添い申告]


 そこまで入力した手が止まる。


 画面を見つめる。


 何かが引っかかる。


 医学的な違和感。


 それとも、美咲の怯えた目だろうか。


 結局、神崎はカルテの備考欄に一行だけ付け加えた。


[創形状は受傷機転との整合性について経過観察を要する]


 誰にも気づかれない、小さな記録だった。


 その夜。


 歓迎会は簡単な食事会に変わっていた。


 神崎はグラスを片手に窓際へ立つ。


 病院の明かりの向こうには、昼間と変わらず黒い森が横たわっている。


「先生。」


 振り向くと病院長の佐伯が立っていた。


「初日から大変でしたね。」


「ええ。でも、いい経験でした。」


「そうですか。」


 病院長は森を見つめたまま静かに言う。


「あの森には、あまり近づかない方がいい。」


 神崎は思わず笑った。


「熊でも出るんですか?」


 佐伯は笑わなかった。


「……そういうことにしておきましょう。」


 その表情は、昼間までの穏やかな病院長とは別人のようだった。


 遠くで風が唸る。


 森の木々が揺れ、闇がゆっくりとうねるように見えた。


 神崎は知らない。


 二十年前、この町で一人の少女が忽然と姿を消したことを。


 そして、その事件が未解決のまま、人々の記憶から「なかったこと」にされていることを。


 その夜、美咲は病室でうなされながら、眠ったまま一人の名前を呼んだ。


「……さくら、お姉ちゃん。」


 その名前を聞いた者は、まだ誰もいなかった。


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