北の街へ(後編)
救急外来の自動ドアが開いた瞬間、冷たい風とともにストレッチャーが運び込まれた。
「十六歳、女性。自宅近くで転倒。ガラス片で左頬を受傷。意識清明、血圧一一117/80、脈拍90、出血は圧迫でコントロールできています」
救急隊員が手際よく申し送りをする。
神崎は頷きながら患者の顔に視線を落とした。
少女の長い黒髪は血で頬に張り付き、左の頬から口角へかけて赤黒い血液が流れている。両手は強く握りしめられ、小刻みに震えていた。
「名前は?」
「白石美咲さんです」
「美咲さん、聞こえますか」
少女はゆっくりと目を開けた。
瞳は澄んでいる。しかし、その奥には外傷とは別の恐怖が宿っていた。
「先生……」
かすれた声だった。
「安心してください。傷は私が診ます」
神崎はそう言いながら手袋をはめた。
看護師が生理食塩水を準備する。
「洗浄します。少し痛みますよ」
血液が洗い流されるにつれ、傷の全貌が現れた。
処置室の空気がわずかに変わる。
長さは約七センチ。
左頬骨の下から口角近くまで斜めに走る裂創。
表情筋の一部が露出しているが、幸い耳下腺管や顔面神経の走行とは少しずれている。
きれいに縫合すれば、大きな後遺症は避けられる。
そこまではよかった。
だが、神崎の指先は小さな違和感を拾っていた。
(創縁が……滑らかすぎる。)
ガラスによる裂創なら、細かな皮膚の裂けや不規則な切れ込みが残ることが多い。
しかし目の前の傷は違う。
一本の鋭利な刃物で引いたように整っている。
もちろん断定はできない。
だが、「転倒して割れたガラスで切った」という説明と完全には一致しなかった。
「ガラスで転んだんですよね?」
神崎は付き添ってきた女性へ尋ねた。
三十代後半ほどだろうか。近所の住民らしく、落ち着かない様子で立っている。
「はい……そう聞いています。」
「見ていたんですか?」
「い、いいえ……物音がして外へ出たら、この子が倒れていて……」
言葉が途切れる。
神崎はそれ以上聞かなかった。
今は治療が優先だ。
「局所麻酔します」
細い針が皮膚へ入る。
美咲は眉をひそめたが、声は上げなかった。
「痛かったら言ってください」
彼女は小さく首を振る。
神崎は傷の奥を慎重に確認した。
筋肉の断裂は最小限。
異物もない。
形成外科では、ただ皮膚を閉じるだけでは終わらない。
皮下組織、真皮、表皮――層ごとに丁寧に縫い合わせ、張力を分散させることで、数年後の傷跡まで変わる。
一針、一針。
静かなリズムで針が進む。
神崎は縫合中、患者の表情をよく観察する癖があった。
人は痛みだけではそんな顔をしない。
恐怖、後悔、怒り、諦め。
感情は必ず顔に現れる。
美咲は、ずっと処置室の天井ではなく、窓の外を見ていた。
そこには夕暮れの森が広がっている。
針を置く神崎の手が止まる。
「森が気になる?」
少女は何も答えない。
しかし数秒後、震える唇がゆっくりと動いた。
「……行かないで。」
「え?」
「先生……森には……行かないで。」
その一言だけだった。
麻酔が効いてきたのか、彼女は静かに目を閉じる。
神崎は返事をすることもできず、縫合を再開した。
約五十分後。
「終了です。」
最後の結び目を切る。
傷は細い一本の線へと変わっていた。
「さすが先生。」
師長の高橋が感心したように言う。
「これなら目立たなくなりますね。」
「まだ始まりです。半年、一年とかけて診ていきます」
神崎はそう答えながらカルテを書き始めた。
[受傷機転:転倒によるガラス裂創(本人・付き添い申告]
そこまで入力した手が止まる。
画面を見つめる。
何かが引っかかる。
医学的な違和感。
それとも、美咲の怯えた目だろうか。
結局、神崎はカルテの備考欄に一行だけ付け加えた。
[創形状は受傷機転との整合性について経過観察を要する]
誰にも気づかれない、小さな記録だった。
その夜。
歓迎会は簡単な食事会に変わっていた。
神崎はグラスを片手に窓際へ立つ。
病院の明かりの向こうには、昼間と変わらず黒い森が横たわっている。
「先生。」
振り向くと病院長の佐伯が立っていた。
「初日から大変でしたね。」
「ええ。でも、いい経験でした。」
「そうですか。」
病院長は森を見つめたまま静かに言う。
「あの森には、あまり近づかない方がいい。」
神崎は思わず笑った。
「熊でも出るんですか?」
佐伯は笑わなかった。
「……そういうことにしておきましょう。」
その表情は、昼間までの穏やかな病院長とは別人のようだった。
遠くで風が唸る。
森の木々が揺れ、闇がゆっくりとうねるように見えた。
神崎は知らない。
二十年前、この町で一人の少女が忽然と姿を消したことを。
そして、その事件が未解決のまま、人々の記憶から「なかったこと」にされていることを。
その夜、美咲は病室でうなされながら、眠ったまま一人の名前を呼んだ。
「……さくら、お姉ちゃん。」
その名前を聞いた者は、まだ誰もいなかった。




