残された傷(前編)
翌朝、神崎悠人はまだ薄暗い廊下を歩いていた。
午前六時半。
地方病院の朝は、大学病院よりも静かだった。
しかし、その静けさは決して暇という意味ではない。
ナースステーションでは夜勤の看護師が申し送りを行い、病棟には点滴スタンドを押す音や、患者の小さな咳払いが響いている。
病院という場所は、どれだけ規模が違っても変わらない。
そこには必ず、人の不安と希望が同時に存在している。
「神崎先生、おはようございます」
声を掛けたのは、高橋師長だった。
「おはようございます。白石さんの状態はどうですか?」
高橋は少し表情を曇らせた。
「傷の状態は問題ありません。ただ……」
「ただ?」
「夜中に何度か起きていました」
「痛みですか?」
「それもあると思います。でも、寝言で何度も同じ言葉を言っていました」
神崎は足を止める。
「何と言っていたんですか?」
高橋は一瞬迷った後、小さな声で答えた。
「……ごめんなさい、って」
神崎は何も言わなかった。
顔面外傷の患者は珍しくない。
事故、転倒、スポーツ外傷、仕事中の怪我。
しかし、傷を負った患者の中には、身体の傷以上に深いものを抱えている人がいる。
形成外科医として何度も見てきた。
傷は皮膚に残る。
だが、本当の傷は目に見えない場所に残ることがある。
「診てきます」
神崎は病室へ向かった。
白石美咲は窓際のベッドに座っていた。
昨日と同じように、外を見ている。
視線の先にあるのは、病院裏手の森だった。
「おはよう、美咲さん」
「……おはようございます」
昨日より声はしっかりしている。
神崎は少し安心した。
「傷を見せてもらうね」
ガーゼを慎重に外す。
腫脹は軽減。
皮膚の色も悪くない。
縫合部の状態も良好だった。
「順調だよ」
そう伝えると、美咲は少しだけ目を伏せた。
「本当に……元通りになりますか?」
「完全に何もなかった状態にすることは難しい。でも、できるだけ目立たなくすることはできる」
神崎はそう答えた。
形成外科医として何度も説明してきた言葉だった。
しかし、美咲はその言葉を聞いても安心した様子を見せなかった。
「先生は……傷を見るんですよね」
「うん」
「じゃあ、分かりますか?」
「何が?」
「その人が、どうして傷ついたのか」
神崎は少し黙った。
医師は傷から多くの情報を得る。
方向、深さ、形状、受傷機転との一致。
だが、それだけですべてが分かるわけではない。
「全部は分からないよ」
神崎は答えた。
「でも、分かろうとはする」
美咲はその言葉を聞いて、初めて神崎の顔をまっすぐ見た。
「……先生なら」
小さくつぶやく。
「先生なら、見つけられるかもしれない」
「何を?」
美咲は答えなかった。
その時、病室のドアがノックされた。
「失礼します」
入ってきたのは、昨日の付き添いの女性だった。
美咲を見るなり、安心したように笑う。
「美咲ちゃん、具合どう?」
「大丈夫」
しかし、女性の視線は神崎へ移った瞬間、わずかに緊張した。
「先生……」
「はい」
「昨日のことなんですが」
女性は言葉を選ぶように間を置いた。
「美咲ちゃんが言ったこと、気にしないでください」
「森へ行かないで、という話ですか?」
女性の顔から一瞬、表情が消えた。
「……聞いたんですね」
「はい」
短い沈黙。
窓の外で風が鳴った。
「この町では、昔から森の話はしないんです」
「どうしてですか?」
女性は美咲を見る。
少女は目を閉じていた。
聞こえているのか、聞こえないふりをしているのか分からない。
「昔、あそこで……」
女性が口を開きかけた瞬間。
「失礼します」
突然、背後から声がした。
振り返ると、病院長の佐伯が立っていた。
いつもの穏やかな表情。
しかし、目だけは笑っていなかった。
「患者さんの前で昔話をするものではありませんよ」
女性は口を閉じた。
「……すみません」
佐伯は神崎へ向き直る。
「神崎先生」
「はい」
「この町には、医師として知っておくべきことと、知らなくてもいいことがあります」
その言葉の意味を、神崎は理解できなかった。
ただ一つ分かったことがある。
この町の人間は、何かを隠している。
そして、美咲の傷は、その秘密につながっている。
その日の午後。
神崎がカルテ整理をしていると、古い書類棚の奥から一冊のファイルが落ちてきた。
偶然だった。
ただの偶然のはずだった。
だが、表紙に書かれた文字を見た瞬間、神崎の手は止まった。
――平成十八年度 行方不明者記録。
その一番上にあった名前。
**白石桜。**
年齢、十六歳。
失踪日、二十年前。
神崎は息を止めた。
そして、無意識に昨日手術した少女の顔を思い浮かべた。
白石美咲。
同じ名字。
そして、あまりにも似た目。
静かな病院の中で、時計の秒針だけが響いていた。




